映画『カメラを止めるな!』を久しぶりに鑑賞。やはり、この映画のすべてを本当に撮影したカメラマンがエンディングで初めて姿を見せるところで、胸が騒ぐ。
カメラはあらゆるものを撮影できるが、そのカメラ自体は撮影できない。映画にその映画を撮影しているカメラマンが映ることはできない。原理的に。これは「映画には外部が存在できない」ということだ。いや映画に限らず「あらゆるものに外部は存在できない」。存在しているかぎりそれは内部だ。原理的に。
宇宙にもし外部らしきものが見つかったら、そのときからそれは宇宙の内部になる。さらにその外部らしきものが見つかっても、そのときからやはりそれも宇宙の内部になる。すべてのものを含むのが宇宙だというなら、その外部は存在しえない。
さてさて、そもそも、「ものごとにはどこまでいっても内部があるはずだ」という素朴な確信がある。同じく「ものごとにはどこまでいっても外部があるはずだ」という素朴な確信もある。
しかし物理学的には、ものごとの内部には限界(プランク的な長さや時間)があり、それ以下の内部はないようだから、頭がむずがゆくなる。
同じく、宇宙にもこれ以上外部はないよという限界があったとしても、受け入れるしかないのだろう。
存在したら外部ではないというのは、存在したら神ではないというのと、同じようなことだろうか?
さてしかし『カメラを止めるな!』のカメラマンは最後にとうとう姿を現わす。彼は神だ。なのになぜ私にその姿が見えるのか? それはあのエンディングが<メイキング>だからだ!
宇宙の外部を知ることがあるとしたら、それもまさに、宇宙のメイキングを知ることなのかもしれない。――凄いことを思いついた。
しかし待て、『カメラを止めるな!』のメイキングでカメラマンが映っているということは、そのメイキングを撮影しているさらに外部のカメラマンがいなければならない。
◎この問題の過去の考察(2つ)
★カメラを止めるな!/上田慎一郎(ネタバレ注意) - 東京永久観光
物理学的に「もう内部はない」と言われるとき、それがものすごく小さいことが理由ではないのだろう。「もう外部はない」と言われるときも、それがものすごく大きいことが理由ではないのだろう。
じゃあ理由は何だ? そもそも「内部」や「外部」と呼ぶような認識の原理が不正確・不十分ということになるの哉?