東京永久観光

【2019 輪廻転生】

じつは印象の薄い人(言語論)


村上春樹の小説ではやけに印象に残る人物が主役級以外にしばしばいる。『1Q84』なら、2冊目に入ってすぐ、天吾が勤務する学習塾にアポなしで訪ねてくる牛河という男などがそうだ。そのたたずまいはこう書かれている。asin:4103534222


牛河は背の低い、四十代半ばとおぼしき男だった。胴は既にすべてのくびれを失って太く、喉のまわりにも贅肉がつきかけている。しかし年齢については天吾には自信が持てない。その相貌の特異さ(あるいは非日常性)のおかげで、年齢を推測するための要素が拾い上げにくくなっていたからだ。もっと年上のようでもあるし、もっと若いようでもある。三十二歳から五十六歳までのどの年齢だと負われても、言われたとおり受け入れるしかない。歯並びが悪く、背骨が妙な角度に曲がっていた。大きな頭頂部は不自然なほど扁平に禿げあがっており、まわりがいびつだった。その扁平さは、狭い戦略的な丘のてっぺんに作られた軍用ヘリポートを思い起こさせた

彼の着たグレーのスーツには無数の細かいしわがよっていた。それは氷河に浸食された大地の光景を思わせた。白いシャツの片方の襟は外にはねて、ネクタイの結び目は、まるでそこに存在しなくてはならないことの不快さに身をよじったみたいに歪んでいた


とつとつと しかし手の込んだ描写を村上春樹は執拗に重ねている。まだまだ続く。それは読んだ時の記憶を上回るもので、書き写しているとこちらまでなんだかこっそり楽しくなってくる(writing high?)。牛河が印象に残ったのも道理か。


しかし考えてみると、牛河という人物は現実にはどこにもいない。つまり、このさえない男性のイメージは、すべて小説の文章のみから出来ているわけで、それはやっぱりなかなか凄いことだ。それぞれの人物がどこかふしぎに懐かしいのも、ひとえに村上春樹の文体がもつ独特ムードが懐かしいからかもしれない。


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さてさて。同一の猫やリンゴは存在しないのに、言葉のほうは「猫」そして「リンゴ」とみな同じだ。ある猫の毛並みや性質が、あるリンゴの味や歯ごたえが、他のどれとも少しずつ異なるからといって、それを言い表すのに、他の猫やリンゴとはいちいち異なる描写をするかというと、そうではない。この世のものごとの限りない多様さに比べ、言葉はあまりにも不足している。私たちが生きている世界の精彩さを私たちの言語が写し取ることは、原理的にできないのだ。




でも、たとえば次の文章はどうだろう。


評判どおりの巨大な器に大盛りのラーメンが熱すぎる湯気を立てている。柔らかく適度に縮れた細めの麺はのどごしがよい。煮干しと醤油がみごとに合った和風スープも絶妙。ゆずの香りが食欲を増す


これは東京・永福町にある大勝軒のラーメンを私がテキトウに紹介したもの。わざわざ行列してあのラーメンを食べに入ったことのある人なら、「まあそんなかんじ」とその特有の味を思い出すのではないか。


こんな短い紋切り型の語句から、なぜ精妙にして独特なあのラーメンが立ち上がってくるのか。それは、表現している言語が複雑・固有だからではなく、表現されているラーメンのほうが複雑・固有だからだ。


ついでにもう一つ。


夜が明けてからの景色は素晴らしかった。はじめは樹林そして草原が主だったが、途中からほとんど草木のない土の砂漠に変わった。視界を遮るものはみごとに何もない。地平線が果てにあるばかり。南側の窓からは山脈が連なっているのが見える。頂上が真っ白な山々だ。忘れた頃に駅や小さな村落のそばを通る。羊や牛や農民や子供がいて畑もある。しかしそれは大地の広がりに比してあまりに小さかった。空は青く日射しは強い。雲はいくつかあるが、これもまた空のあまりの大きさにずいぶん小さくしか見えない。こういう風景の中を列車は走った


私が10年前の中国旅行で敦煌に向かう列車から外を眺めながら記したもの。こちらも同じく、私がこの風景の固有さと複雑さを知っているがゆえに、ありふれた記録から、ありふれない風景がたしかに再構成され追体験されるのだ。


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話がややこしくなるが、じゃあ『1Q84』の牛河のほうは、リアルな牛河を知らないのはずなのに、なぜリアルに感じるのだろう。答はたぶん単純。村上春樹の小説の言語をトリガーにして、我々は、過去に出会った牛河さんにいくらか似た人物や、牛河さんのものにいくらか似た容貌や体躯や服装の記憶を引き出すからだろう。牛河さんにはあまり似ていないものすごく大勢の人物などの記憶もまた適宜多数が引き出されてくるにちがいない。


才能ある作家の描く世界はその言語によって完璧に織り上げられている。とはいえ、凡人の体験や感触のほうもなかなかどうして、広く深くどこまでもどこまでも織り上げられている。そして、そんな我々の世界を織り上げている一番大切な糸というなら、やっぱり言語なのだろう。


いろいろ思いはめぐるのだが、きょう特に言いたいのは、したがって、言語が私たちの世界を保ってくれているのと同時に、言語は私たちの世界を侵しているとも捉えることができることだ。


村上春樹が『1Q84』をめぐって読売新聞のインタビューを受けたと先日 報じられた。現在はその詳細が読めるが、最初はたった1ページの短い記事だけだった。それでも「(オウム事件は)現代社会における『倫理』とは何かという、大きな問題をわれわれに突きつけた」や、「作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている」という発言だけからも、我々は非常に多くの思考を立ち上げることができる。それは間違いなく、この短くありふれた発言が、今しがたまで読んでいた『1Q84』という小説の固有さや複雑さをどんどん引き出してくるからだ。

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20090615-OYT1T00846.htm(第一報)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm(詳細・未読)


しかしまた、たとえばここにもある「原理主義」という言葉からも、我々は自動的に思考を立ち上げてしまう。そして、ここで私が認めるべきは、原理主義という言葉からどれほど複雑なことを考えたとしても、その複雑さのほとんどはメディアやブログなどから得た「言語体験の複雑さ」でしかないということだ。


もちろん、現実ではなく村上春樹の小説にしか存在しない牛河さんについてなら、いくらでも言語体験のみの牛河さんを楽しめばいい。しかし、原理主義にはもちろん現実の複雑さと固有性が存在している。いやそんなことは承知している。それより次の疑問に思い至るべきなのだ。我々の世界観や世界像は、現実や自然の複雑さだけでなく、その現実や自然をめぐる言語の複雑によってこそ覆われているのではないかと。そしてその言語の複雑さは、現実や自然の複雑さをべつにそのままトレースしているわけではないだろうと。原理主義についてであれ、オウムなどの宗教についてであれ。あるいは日本の国についてであれ、世界の歴史についてであれ。ついでに会社のあのイヤな上司についてであれ、ひょっとして大切な家族の誰かについてであれ、あなたはそのイメージを案外言語だけで作り上げてはいないかと。


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……ちなみに、牛河という名の男は『ねじまき鳥クロニクル』にも出てきたらしい。あれっ、そうだっけ?