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【2019 輪廻転生】

ロボットもゴキブリも猫も杓子も?


フレーム問題について、ずっと(ときどき)考えていた。

ロボットはコンピュータなので、刺激も反応もすべてプログラムで設定してある。プログラムとはすなわち言語だ。しかし人間が行動するときは、刺激や反応をすべて言語に置き換えて扱っているわけではない。そこがロボットとは異なるポイントか。

つまり、人間は、無限ともいうべき多数の情報をふくんだ現実と向き合うが、ロボットは現実のうちその輪郭だけを抽出した有限の言語とのみ向き合う。たしかに我々も言語を使って命令したり応答したりしているように見えるが、実際にはそれらの言語にともなう無数の情報が同時に行き交っている。たとえば「危ない!」という言語が聞こえたとき、我々は「危ない」という辞書的意味だけをたよりに反応するわけではない。

したがって、ロボットも、仮に、言語にともなう無数の情報をすべて言語化(プログラミング)できたなら、フレーム問題は解決するのだ。

では、我々が直面している現実そのものを我々自身が本当にすべて言語化するのは可能なのだろうか・・・・というと、なんとなく無理に思えてしまう。・・・でもなぜ無理なんだろう。そこがフレーム問題の不思議さか・・・

・・・しかしながら。自分が直面する現実のすべてを言語化するのが難しいのは、それが自分の行動だからではないか。自らの行動を自らがすべてプログラムするのは原理的に自らのキャパシティーを超えることなので難しい、ということなのかもしれない。

そこで、我々より行動が単純そうな、たとえばゴキブリを想像してみよう。観察できる範囲にかぎれば、ゴキブリが受け取る刺激とそれに対するゴキブリの反応くらいであれば、ゴキブリ自身には不可能としても、我々であればすべてを言語化することが可能なのではあるまいか。つまり、ゴキブリの行動すべてをプログラムしたロボットなら実現できる。そのロボットはゴキブリからみてフレーム問題には陥らない。

さあそこで。人間の行動はゴキブリの行動より複雑なようだが、動物として備えてきた神経系の原理は同じだろう。だからやっぱり、人間とゴキブリの差、人間とロボットの差とは、神経すなわちプログラムの質の差ではなく量の差に由来するのだと思われる。

ついでながら、ゴキブリではなく猫や杓子や役人はどうだろう。の行動は私のキャパシティーを超えてしまう。しかし役人なら。たとえば国会での答弁など観察できる範囲にかぎれば、役人は、国民や議員の声を法律的な意味=言語的な意味のみを抽出した刺激として受けとめ、法律的なプログラムのみによって杓子定規に処理し、そうして法律的な意味のみの音声だけによって反応する。

というわけで、人間>>>>>>>>>>ゴキブリ>ロボット=役人、といったところではないか。そして、>>>>>>>>>>を「越えられない壁」とみなせばフレーム問題であり、越えられる壁とみなせばフレーム問題は存在しない。(というか、越えてくれ、役人!)

いろいろ書いたが、これらはみな、フレーム問題としてすでに議論されてきたことに入るものばかりだとは思う。

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ここまでのこととは別だが、フレーム問題を考えるのに、「人間の脳や体の可塑性」と、おそらくそこから帰結する「人間の行動の自律性」といった観点が、ものすごく重要なものとしてあることは間違いない。

ロボットやコンピュータのプログラムは不変なので、刺激(入力)は同一でなければならず、反応(出力)も同一でしかありえない。この観点では、人間とロボットの違いは、量の差ではなく質の差だ。

無意識直感ということも、この「人間の脳や体の可塑性」や「人間の行動の自律性」の結果であるとは言えるのかもしれない。

というわけで、脳とコンピュータの処理過程の違いを考えるなら、処理過程の原理の違い(コネクショニズム的であるかどうかなど)や、処理過程の複雑さの違いだけでなく、そもそも「処理過程が常に変動している」という違いこそが決定的なのだと思われる。

前半に書いたことに絡めれば、人間がかかわる刺激と反応のすべてを言語で再現することができないのは、現実が無限に複雑だからではなく、それらの刺激と反応が人間の脳や体との相互作用によって常に変化するからだ、ということになる。「言語は変わらないが、言語の意味は常に変わっている」ということでもあろう。

この観点についてはまた考えたい。

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◎参照 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080525#p1(トリア〜ズ)

id:deepbluedragonさん。コメントありがとうございました。大変遅くなりましたし、返答というわけでもありませんが、とりあえず。