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【2019 輪廻転生】

言語の起源と進化(ズバリその話)+α+β


シリーズ進化学第5巻『ヒトの進化』(岩波)という本に、「言語の起源と進化」という章がある。筆者は理化学研究所岡ノ谷一夫さんasin:400006925X

以下それを読んでの覚え書き(原文の正確な引用ではないので注意)

言語の起原。それは考えれば考えるほど不可解なので、珍妙な説がいくらでも出てきてしまう。そんなことから、かつてパリ言語学協会というところは「言語の起原についての論文は、もう受け付けませんから!」と禁止宣言までしたらしい。1866年の話。

封印されたそのテーマがやっと復活するのは1990年代。スティーブン・ピンカーの研究がその契機だった。そのとき一般向けに著したのが、有名な『言語を生みだす本能』なのだそうだ。asin:4140017406

そんなことを枕にしつつ、言語の起原と進化という謎が、さていかなる原理によってなら問えるのか、実際どんな方法で問われているのかを、整理し提示していく(この中身については省略)。

そして面白いことに、言語の起原論は今またもや諸説粉々かまびすしいのだという。しかも玉石混交の度合いは19世紀より現在のほうがすごいとも述べている。そして最後に以下のように訴える――。

このように研究が活況であり得られる経験的証拠が大量であるおかげで、言語の起原と進化という問いは、本質的シナリオを描く以前に、かえってそうした詳細な情報に埋もれてしまう危険がある。(それを考慮してのことだろう)言語の起原と進化の探究は、通常の生物学の手続きとは異なる方法で進めていく必要がある。実際にどのようなことが起こったかを知る科学だけでなく、どのようなことが起こりえたのかを叙述する科学もあり得ることを認める必要がある。

これは科学研究として非常に大胆な戦略ということになるのかもしれない。

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では筆者自身はどのような大胆な戦略で言語に迫っているのか――。

岡ノ谷一夫さんは、ジュウシマツの歌が文法を持っていることを立証したことで知られている。オスがより複雑な鳴き方で求愛すれば、メスはより強く引きつけられる。ジュウシマツの歌が文法を備えることは性淘汰として有効というわけだ。しかしおかしなことに、ジュウシマツの文法のバリエーションはメッセージのバリエーションを伴わない。どのように歌おうとメッセージとしては求愛以上のものは含んでいない。鳴き声をいくらややこしく組み立てても、伝わるメッセージがややこしくなっているわけではないのだ。その点、人間の言語において文法が果たしている役割とは全く異なっている。

ここから何が考えられるか。

人間も、音声を複雑に組み立てる能力を、もともとは求愛の用途などに用いていたのだが、それがやがて言語の文法能力に転用された可能性がある。恐竜の保温に役立っていた羽毛が、鳥が飛ぶための翼に進化したのと同じ現象だ。ここから岡ノ谷さんは、大昔さまざまな人類が生息したうち、複雑な歌で求愛していたグループだけが、やがて複雑な文法をもつ言語を備え現在の我々に至ったのではないか、というふうにも発想していく。

ここには言語の起原に迫るある立場が現れている。言語の起原を説明できるある原理と言ってもいい。すなわち、人間の祖先であった動物がすでに身につけ他の用途で使っていた能力のいくつかが融合することで言語という新しい能力が成立したとみるのだ。融合した能力としては次の3つが同書で挙げられる。音声を多様に学習する能力、特定の音声信号を特定の事物に対応させる能力、そして音声を文法的に組み立てバリエーションを作る能力。

この立場は、言語の起源を説明する「断絶説」「漸進説」「前適応説」のうちの「前適応説」だとしている。断絶説は言語がいきなり出現したとするもので、言語学者の多くがこの立場とみることもできるようだ。漸進説は言語はきわめて幸運な自然淘汰で進化したとするもので、ピンカーに代表されるという。しかしこの2つの説明には無理があり、「言語を可能にした個々の機能は自然淘汰で獲得されたが、言語それ自体は、独立して進化した諸機能がなんらかのきっかけで融合することによって生じた」とする前適応説が最も妥当だと、岡ノ谷さんは主張している。

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それ以外に、この本で個人的に「へぇ」と思ったことを少しだけ(*またあとで)


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(追記6.17) ジュウシマツの歌が複雑な文法をもつのに複雑な意味はもたない、ということを実感しにくい場合は、音楽(まさに歌)のことを想起するとよい。音楽は「複雑な構成になるにつれてその言語的な意味も複雑になる」ということはない。それによって、ここが重要だが、我々の音声表出が複雑な文法だけをもっていた(意味なんてなくて強度しかなかった)かもしれない時代を、いくらか類推できるのではないか。

参考 → http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070616/1181926562

   → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070615#c1181905931


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■さらに追記(6.30)

deepbluedragonさんのコメント(下欄)を受けて――

言語は一回だけしかし確実に出現した。したがって言語進化の道筋は、いかにあれこれ想像できようと事実は一つしかない。逆にまったく想像できないとしても一つだけは事実がある。この悩ましさを前に、言語の起原を本気で分かりたいという気持ちを、内心どこかで放棄してしまったのが通常の言語学であり、生物学にしても大半はそうなのかもしれない。――岡ノ谷論を私をこんなふうに受けとめました。

言語の前適応説が一般的な進化心理学の範囲を超えないのかどうか、そこはよく分かりません。ただ、言語進化の必要条件だけでなく十分条件たりうるシナリオを大胆に描くことから始めようではないかという強い熱望がそこに感じられると思うのです。また、言語現象における事実・動物の音声交信における事実・身体と脳神経における事実・進化のシミュレーションにおける事実、などなど無視するわけにいかない観点はみなきちんと踏まえようとしているようです。

そもそも、鳥の歌声の複雑な組み立てに文法発生のメカニズムを見いだすという岡ノ谷説は、あっと驚くものに感じます。ここには、言語は部分(単語)から始まったのか全体(文法)から始まったのかという大きな問いが浮上してくると思います。また、初期言語の出入力が「口と耳」だったのか「手と目」だったのかという問いも絡んでくるようです。言語起原に関する本質的で十分なシナリオを描くには、このような大ナタをどこに振るうかがとても大事なのだと考えさせられます。

id:deepbluedragonさんのブログはときどき読んでしばしば反省しています。これからもどうぞよろしくお願いします。