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【2019 輪廻転生】

小説いろいろ


近代文学はもう終わったんですよ皆さんしつこく言わせないでくださいよもう、と柄谷行人がしつこく言っている(新潮、福田和也との対談)。

ぱらぱら読んだだけで記憶もテキトウだからそのつもりでいてほしいが、19世紀のフランスやドイツの大小説を引きあいに出し、この時代は人間の感性とかなんかそのようなものが、ロマンとか国民とかなんかそのようなものを確実に形成したのだけれど、現代はもうテクノロジーとかグローバリズムとかなんかそのようなものに覆いつくされ、感性のようなものは消滅してしまったから、かつてのような文学は成立しえない、最近の文学はすべて情報であるにすぎない、したがって私はもう小説になどまったく期待しないし、批評家もそんなものを論じるくらいならもっと他に論じるものがあるだろう、となんかそのような態度であり、そんな終わったはずの小説がたくさん載っている文芸誌を汗臭い図書館のソファーで昼間っからせっせと繰っていた私を、あいかわらずがっかりさせるのであった。

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しかし、そんなこと当たり前の初期条件でしょとでも言いたげに小説と最初から向きあっている作家もいることを、同じく新潮で連載中の保坂和志小説をめぐって」に行き着いて、確信する。この連載は保坂氏のサイトで3回目まで読める(参照)。小説というものについて保坂は限りなく個人的に問いかけている。(連載「小説をめぐって」→書籍『小説の自由』ASIN:4103982055

世の中において、小説とは何かということは、たとえば選挙とは何か学校とは何かということと同程度の共通認識を保っているように見える。でも実を言うと、小説が何ものであり、それを書いたり読んだりすることで何が起こっているのかについては、新聞やビジネス文書や年賀状に比べたら、まったく分かっていないし考えれば考えるほど分からない。ただ小説を読んでいないときはそんなこと忘れているのだが、たまに読んでみると必ずその分からなさにぶちあたる。こんなこといくら繰り返したって何の甲斐もないんじゃないかとの思いにもかられる。

そういうとき、保坂のこのような問いかけだけが支えになる。大半の小説がどうも漠然とまちがって書かれ読まれているような気もしてきて、だったら私が今またなにかの小説を漠然とまちがって読んだとしても平気じゃないかと、肩が楽になるのだ。保坂のその思考はなかなか前に進まない。しかし足踏みしようが後戻りしようが、こうした思考こそ根本の問いなのだから、置いていくわけにはいかないし、置いていきたくもない。

なるほど、現代の小説が抱えている困難というのは、「近代文学は終わった」という認識を正しく踏まえることでたいていカタがつくのかもしれない。しかし、そうした認識にはあまりかまってもらえないような愚直な問いかけというものもあって、こっちはたいして手を付けられずにきたようにも思う。

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こういう保坂和志のごとく問いかけの圧倒的な変人が、芥川賞を取っているというのは、僥倖に思えるが、何かのまちがいにも思える。

その芥川賞舞城王太郎が落選した。…などと話題をふると、舞城を落とすような選考委員は文学の根本のところが分かってないね、とでも言いたげに聞こえるだろうか。でもそんなつもりは全くない。私は舞城小説が徹底して不可解なので、とにかく徹底して個人的に読んで個人的に考えることからしか何も始まらないと思っているけれど、選考委員の書く小説だって、やはりそれぞれに不可解でありそれぞれに個人的に読んで個人的に考えることからしか何も始まらないと思っている。

ただ、舞城小説の「分からなさ」は、上で述べた小説の平均的で曖昧な「分からなさ」というより、かなり特殊で鮮明な「分からなさ」が目立つとは言える。だからこそ分かりたいし分かりそうにも思えて近づくのだが、けっきょく分かったとは言いがたく、かといってその特殊さ鮮明さゆえにもう遠ざけることもできない。そんなところが本音だろう。批評家もけっこうそんなふうで、ときおり何か言ってはみるものの、あんまり当ってないなあと内心自分でも感じているのが実状ではないだろうか。

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そんななか、東浩紀が『ファウスト』に連載している「メタリアル・フィクションの誕生」の第1回と第2回を読んで、舞城小説について一つの明瞭な評価が明瞭な言葉によって初めて示されたとの感慨をもった。

東によれば、現代の社会や表現は物語志向からコミュニケーション志向に転じたことが重要だ。その背景にはゲームやネットの存在が大きい。それらは双方向という点で小説や映画や漫画とは根本的に違う。そうしたゲームの最中には、虚構世界にあるキャラクターの視点を持つだけでなく、現実世界にある自らの視点をもプレーヤーとして介在させることで、まったく独特のリアルさが立ち上がってくる。これは小説などの主人公に視点を同化させるのとは原理的に異なるリアルさだ。第1回ではそれをじっくり例証する。この極めて重大で画期的な変容は、ゲーム愛好者なら身をもって感づいていたのかもしれないが、それが明晰なロジックで整理されることで、ゲームを知らない者もそのリアルの実感に肉薄できる。

そして第2回では、ゲームのようなプレーヤーとしての介在は本来ありえない小説という形式であっても、物語志向からコミュニケーション志向へという社会や表現の変化を見据えることが、現代の書き手には求められていると論じたうえで、そうした希有な実践として、舞城王太郎の『九十九十九』を取り上げ大いに評価する。この論は『九十九十九』を読む際におそらく最も必須の観点を最短距離で示したと思われた。

なお、「メタリアル・フィクションの誕生」第1回が収められた『ファウスト』創刊号で、巻頭を飾っていたのは何を隠そう舞城王太郎だ。その書き下ろし小説「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」のキテレツな魅力も、東が示したゲーム特有のリアルさを踏まえた分析は有効だろう。

さらに、舞城の芥川賞候補作「好き好き大好き超愛してる。」も文芸誌(群像)を探して読んでみたが、「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」と似た系統の作品だ。というかその展開は普通なら非常識と形容していいもので、選考委員でなくても読みあぐねる危険は大きい。ちなみに、冒頭ある女の身体を蝕ばんでいるという虫が「ASMA」と呼ばれており、これやっぱり東浩紀を意識したんだろうなと可笑しくなった。

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とはいえ、舞城小説もいろいろだ(会社も)。メタフィクションやゲームにおける特異なリアルという観点の解読が不可欠であることはまちがいない。でもそれだけで舞城王太郎を読んだ実感が説明しつくせるわけではない。いやむしろ、その刺激と魅力は不明瞭なまま潜んでいる部分がまだまだ大きいのではないか。そんな直感が捨てられない。長編『山ん中の獅見朋成雄』なども、どうも読後感の整理がつかなかったが、中条省平が「とてつもなく奇妙で、とてつもなく面白い」と絶賛していたので、そうだと気を取り直したものの、ではどう面白いのか、その面白さの秘密をどう言い当てればいいのかと考えて、途方にくれてしまう。

それこそ保坂和志が小説と向きあおうとする姿勢に負けないくらい、根源的に挑まないとダメなのではないか。