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【2019 輪廻転生】

言葉を使う動物たち/エヴァ・メイヤー

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『言葉を使う動物たち』(エヴァ・メイヤー)

 

このタイトルは「空を飛ぶ人間たち」みたいな違和感があったが、読んでみると面白い。

言葉というもののエッセンスを見極めたい、言葉のオールタナティブはありえるんだろうか、といったことはわりとずっと思うわけだけど、実際の作業としてはやっぱり「言葉」の定義を広げたり、あるいは、言葉の境界に内側からでなく外側から迫ったりすることなんだなと、気づかされる。

ヒヒの群れに2年間ついて回ったバーバラ・スマッツという研究者の話が、本の後半に出てくる。日の出から日没まで135頭のヒヒと一緒に移動し、最初の数ヶ月は他の人間とはまったく会わなかったという。

言葉を完全に欠いた生活をしてみて初めて、言葉の正体がわかる、あるいは言葉とはまったく別の言葉に代わる何かを発見できる、といったことになろうか。目が見えない状態になって初めて、目が見えることの本質、目とはまったく別の目に代わる何かを発見できる、といった感じ。

人間にとって仕事とは何だ。それは本気で仕事しない人生を実地で試してみないとわからないです、という事情にも似ているか。ただし、言葉を捨てるのは、仕事を捨てるより、もっともっと大変なことだろう、とは思う。

 

つまるところシンプルに、人間の言葉は独自に研ぎ澄まされてきたとはいえ、動物における認知およびコミュニケーションに通じている、ということになろう。

認知とは「外界や自己をどんな図式で受けとめ思い描くか」ということだが、人間の認知は言語によって再編されると思えるのに対し、「動物の言語によらない認知または独自の言語(?)による認知」を想像してみることは、人間の認知の外枠もしくはオールタナティブを想像することになろう。

コミュニケーションという観点では、実際に言葉はコミュニケーションにこそ大いに役立っているし、言葉なしのコミュニケーションがいかに難しいかもわかっている。しかし、そもそも人間の言語の役割は実はコミュニケーションだけではない、と思われる点も、私はたいへん面白いとも思っている。

たとえば、今しも私はこんなふうに言葉を並べてツイートしているが、これ、コミュニケーションになっているんだろうか? もっとほかの何かをしているのではないだろうか?

そしてまた時事的にはこんなことも考える―― 刃渡り20センチの包丁を振り回すこともまた人間のコミュニケーションなのだろうか? そうだとして、それは言葉とはまったく違ったコミュニケ―ションだったのか? それとも、むしろ言葉とそっくりのコミュニケーションだったのか?

 

さて『言葉を話す動物たち』そのものに戻って―― 

ジョン・ペリーという人は伴侶であるボーダーコリーに1022個のおもちゃの名前を教えたという。

そして《おもちゃのキリンをヒョウのところに持っていくように頼まれれば、そのとおりに持っていく。ヒョウをキリンのところに持っていくように頼まれれば、またいわれたとおりにする》とのこと。

このとき「キリンをヒョウのところに持っていく」という言葉(語や文)を動物が理解したと捉えるか。そうではなく〈キリンをヒョウのところに持っていく〉という行動全体が動物に伝達されたと捉えるか。この2つは違う。言語に興味があるか伝達に興味があるかで、次に追求する方向も代わるだろう。