(三浦瑠麗×東浩紀「わたしたちのよりよい分断のために」#ゲンロン210413)
最初のところを聴いているだけだが、コロナをめぐって あらわになった日本社会の足踏みを、もっとも深いところで抉り出し、考え抜き、批判している。そんなふうに感じられる。
(視聴終了)
いわゆるリベラルに対する強い懐疑を、東氏は年々募らせているように思う。それを今回もしみじみと語っている。そしてもはや三浦氏にはリベラルの過ちは確信であるようにみえる。
その懐疑は多くの人が感じているだろう。しかしなかなか表明しにくい。なぜならリベラルへの本来の期待があり、リベラルを貶める側への本当の嫌悪があるから。そしてもう1つは、自分が感じているリベラルへの懐疑の正体をうまく言葉にできないこと。そこをこの2人は、深く鋭い言葉や概念で示す。
そうしたリベラルへの懐疑を議論するとき、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」は、実によい練習問題だったし、今なおそうなのだ。少なくとも私は今回の対談でまた1つ理解が深まった。
欧州が中東の難民やイスラムのテロに苦悩してきた同じ時代、私たちは東アジアで慰安婦や皇室といった課題をめぐり、かなりうっすらではあるが似たような逡巡を抱えてきたのだ。強くそう思う。あいちトリエンナーレ2019の思想的インパクトは、2011の震災や原発事故にも並ぶのだと、初めて思った。
近ごろこの世(このネット)にはひどい罵倒や喧嘩があふれかえっている。しかし、良い議論も必ずどこかには転がっている。それなりに見つけ出せる。気分が晴れてくる。