「急いで足で踏め!」(ツイッター社に対するヘイトスピーチ反対行動)
――それはそれとして
そういえば先日、映画『沈黙』をみて、踏み絵を現在の自分に置き換えたとき いかにすれば共感できるか、ということを考えた。ここ1年自分の核心的テーマは「無神論」なのであり共感できるはずもないとも言えるが、そもそも強制されて踏んでよい絵など1枚もないのだとも言える。
映画は面白かった。無神論をことさら自覚していなくても、今の日本人には、いわば「空想信仰小説」としてスペクタクルを味わえる。地の果ての島国のさらに隔絶された島々を漂うポルトガル宣教師でなくても、五島列島に生きたキリシタンたちはあまりにも遠い存在だろう。
彼らが なぜあれほど強固なキリスト信仰に至ったのかという理由や背景を、少し描いてくれるとよかったけれど。
それにしても、この話題でどうしてもまた思い出すのは、坂口安吾「二合五勺に関する愛国的考察」。いかなる拷問にも屈しなかったキリシタンも、のちに空腹にだけは耐えられなかったそうで、そこからするとそれを上回る厳しい空腹に国民をひとしく耐えさせた戦争とは、《信仰などより、ケタちがいに深遠巨大な魔物である》と書いている。
◎青空文庫:坂口安吾「二合五勺に関する愛国的考察
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42920_23108.html
(応答として)
日本人信者は熱狂的・情緒的、ポルトガル人宣教師は哲学的・神学的ということでしょうかね。でもともに神の実在は前提でしょう。現代の私は、神をぼんやりとは想定したいのでしょうが、しかし理屈を突き詰めれば神を想定できるはずがない。そのギャップに気づいたことで、無神論について考えています。