たしかに、私たちは、戦争という現実を踏まえないで平和を議論しても、生きていけない(実践的には意味がない)。同じように、資本主義という事実を踏まえないで経済格差を議論しても、生きていけない(実践的には意味がない)。
しかし、そもそも平和を議論しなかったり、経済格差を議論しなかったりでは、生きている資格が無い。私はそう思う。
原発も同じことだ。原発があるという事実を踏まえないで原発廃止を主張しても、生きていけない。しかし、そもそも原発廃止を議論しないのでは、生きている資格がない。
なおこれらは言う順序を逆にしても成り立つ。すなわち―
原発廃止を議論しないのでは、生きている資格が無い。しかし、そもそも原発があるという事実を踏まえないで原発廃止を主張しても、生きていけない。
…こんなことを書きながら、何が言いたいか、だんだんはっきりしてくる。
「日本は原発があっては100%ダメ」という主張は、「日本は原発がなくては100%ダメ」という主張と同じく、知恵がなさすぎではないか、ということだ。
これも逆の順序にすると、こうなる。
「日本は原発がなくては100%ダメ」という主張は、「日本は原発があっては100%ダメ」という主張と同じく、知恵がなさすぎだ。
この形式もやはり様々に適用できる。
「日本は平和憲法がなくては100%ダメ/日本は平和憲法があっては100%ダメ」どちらも知恵がない。
「国なんてものがあったら100%ダメなのだ/国なんてものがなかったら100%ダメなのだ」どちらも知恵がない。
「資本主義があったら100%ダメなのだ」「資本主義がなかったら100%ダメなのだ」どちらも知恵がない。
だって私たちは、「最初から100%ダメと決めてしまうしかない程度の知恵」しか、もたないわけではないじゃないか。(複雑に考えよう!)
もっともっと微妙なところに正解はあると思う。思考をさぼってはいけない。対話をさぼってはいけない。
難問に挑むのをさぼってはいけないのだ。