東京永久観光

【2019 輪廻転生】

死ぬのを我慢する、戦争も我慢する


たとえば、死ぬほど労働がつらいとか、死ぬほど金がないとか、死ぬほど人が憎いとか、死ぬほど政府がアホらしいとか、比喩を超えて強く強く思うことが、そりゃ稀にはあるだろう。つまり「マジに死んだほうがまし」と。自爆したっていいじゃないか、戦争したっていいじゃないか、むしろしたい、と。

いろいろな自死する人のなかには、まさにその「マジに死んだほうがまし」の境地にだった人は多いのだろう。とはいえ、「マジに死んだほうがまし」の境地のままそれでも仕方なく生きている人も、べつに少なくもないだろう。

そして、「死んだほうがまし」が本当に本当なら、死ぬより生きるほうがつらいわけで、まさに生きることのほうが死ぬことに増して地獄だろう。

生きることに耐えかねて死んでしまうより、生きることに耐えかねても耐えたまま生きているほうが、あんまり鮮やかではないけれども、実はもっと大変なのだとも言える。

ではその、より大変な地獄である「死なないこと」を選ぶことに、価値はあるのだろうか? それはただ死ぬのが怖いだけにすぎないのではないか?

そうでもないだろう。死んだら終わりだけど、生きていればなにかがまだ続く。それがいかに地獄であっても、まだ先がある。死んだら天国しかない(無だ、そんなもの)

個人も為政者も、日頃から我慢に我慢を重ね、耐えかね、もう放り出したい、もうだれかを殴りたい、もう自爆したい、もう空爆したい、もうミサイル飛ばしたい、そんなときもあろう。しかし我慢が花。「戦争反対」とは「我慢しようよ」の意味なのではないか。

長くなって引っ込みがつかなくなったが、やっぱり「戦争反対だよね」と言いたかったのだ。(おわり)

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開高健はこう述べたそうだ。
 https://twitter.com/T_kaiko_Bot/status/730797168945045504