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【2019 輪廻転生】

世界史がネットにあるだけでなく世界自体がネットにある勢い

《チェスがインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語によるシャトランジの歴史物語『シャトランジ解き明かしの書』》とかいう記述をたまたまWikipediaで見かけ、世界史のいかにわずかしか知らないことかと気が遠くなる。ましてや遊牧の人々の歴史なんて…

さっきのWikipediaは「ササン朝ペルシャ」の項目だったのだが、その最盛期には、天文・医学・自然科学などの文献がギリシャ語からペルシア語に大量翻訳され宮廷の図書館に収められたと書かれている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D

文明とは、文字・書物・図書館を備えてこそ成立するのかなと思った。そこからいくと、遊牧民は文字や書物にあまり依存しない生活だっただろうし、まして図書館をテントに積んで移動するのは難しかろう。そんなことから、遊牧の世界は、文字や書物で記述される歴史としては残らない運命なのだろう。

それにしても、ここで思い知るべきは、今や、文明の代名詞だった図書館が仮に無くても、スマホ1つでササン朝の歴史からチェスの由来まで何でも知れてしまうことの、途方もなさだ。少なくとも旧時代(20世紀終盤まで)とは世界史的なギャップを生じていると考えるべきだろう。

それは、文字や書物や図書館がない人々や国々から、それをもつ人々や国々への巨大な変化に匹敵する。しかし、さらに考えるべきは、スマホササン朝のことがわかるようになったなんてのは、それらの世界史を遥かにしのぐ変化かもしれない。

つまり、言語なし人類から言語あり人類への変化くらいの超巨大変化だと思うということ。もうちょっと説明すると:人間は現実世界の隅々までを言語世界に写し取って(いるようなかんじで)生きている。それは当たり前すぎてヘンに思わないが、犬や猫からしたら、超絶にヘンな世界像だ。

言語世界という超絶変態世界がまるで当たり前に感じるのと同じことだと思う。最近の私たちの、たとえばネットに世界の全部があるような感覚、あるいはCGやプログラムによって世界の全部が模倣できるような感覚というのは、それに並ぶくらいの超絶変態世界変容だと思うのだ。

世界全体がネットやCGに置き換えられるというのは大げさだろうか? 私はそう大げさではないと感じるようになったのだ。それはついこのあいだ、ドラえもんのフルCGアニメを見て感じたし、きょうはササン朝のくだりをWikipediaで知って感じた。

言語による世界認識が超越変態だなんてまったく思えないように、もうまもなく、ネット世界やCG世界が超絶変態だとは思わなくなるだろう、ということを、きょう強く思ったというのが結論。

だいぶ前、「人間は脳がつながっていないがゆえに、個人の思考や体験を共有できない宿命だ」ということについてしみじみとツイートしたが、ひょっとして、そのハードルをネットはひょいと超えてしまったのだとも言える。今や誰かが知っていることは全員が知っていることだ。スマホさえあれば。

そうしたことを思う一方、遊牧民というものへの漠然としたあこがれというものもまた、私たちには常にあるとも言える。文字や書物や図書館には重きをおかず、文明側からは蛮族と呼ばれつつも、世界の歴史の裏や陰から世界の歴史をことごとく支配してきたかにもみえる遊牧世界。

この比喩でいうと、人間の知能や意識が言語なしには成り立たないと思える一方で、言語とは別のたとえば知覚や感情が、世界史における遊牧民のごとく大活躍しているかもしれないことを、またしみじみと想像するのであった。

ここまでのツイートのきっかけは、『人類5万年 文明の興亡』(下巻)
人類5万年 文明の興亡(上): なせ西洋が世界を支配しているのか (単行本)