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【2019 輪廻転生】

★恋する原発/高橋源一郎

 恋する原発

ちゃんと読むことにした。この小説はきわめて根源的な問いを投げかけている(にちがいない)。2001年の同時多発テロと2011年の東日本大震災の二つを見つめているのだから、ふざけようが手を抜こうが、そうならざるをえないと思う。

2001年の同時多発テロからしばらくして、高橋源一郎は「メイキングオブ同時多発エロ」という小説を群像に連載していた。それを思い出した。あれは発刊されなかったが、今回の「恋する原発」はそれを含めた小説のようだ。

いやそもそも高橋源一郎という人は、それ以前からずっとこんなふうに社会を政治を眺めてきたのではないか。1960年代末の政治の季節にこの人がやっていたラジカルさも、実はこの「恋する原発」や「メイキングオブ同時多発エロ」のごときラジカルさだったのだろう。そしてそれは、とても真面目な評論として書かれた「文学の向う側」における逡巡・思索・達成とも実は完全に一致していると思われる。(『文学なんかこわくない』asin:402264270X

先日みた大島渚の映画『帰って来たヨッパライ』や『日本春歌考』も思い出す。現代の映画や小説も、あのころの大島渚のように、洗練されていなくていいから、かっこよくなくてもいいから、社会や政治の目前の問題にもうちょっと愚直に取り組んだっていい。「恋する原発」はそうしていると感じる。(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20111216/p1

小説は政治の現実に直接立ち向かうことはできない。しかし、小説の言葉は読む人の頭にある政治の言葉を直接狙いすますことはできる。今から思うと、「メイキングオブ同時多発エロ」の言葉はそうした力を秘めていたと思う。今回の「恋する原発」もなんかそうした力をもつような気がする。

「メイキングオ同時多発エロ」もまた、あまりの顰蹙かつバカバカしさに満ちていたにもかかわらず、そのインパクトはなんだか真面目な思索を駆動した。それはしかも10年たっても消えずにいる。

◎「メイキングオブ同時多発エロ」について → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040224/p1


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AVというものの迫真性(いかなる真に迫っているのかはうまく言えないが)ということに目を開かされる。

この小説の語り手とおもえるイシカワは、自身の世界がAV的に成立し自身の思考や行動もAV的なのだが、それは、小説家が、自身の世界が小説的に成立し自身の思考や行動が小説的なのと、相似なのだろう。この世界が放射能的に成立し自身の思考や行動が放射能的である人も今は少なくない。


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《だが、数千の自国民の犠牲を目にして、なお、「テロとは何か。時に、テロを必要とする者もいるのではないか」という議論を冷静にできる国家(民)は、如何なるテロによっても毀損されることはないはずだ。ソンタグがいちばんいいたかったのは、そのことではなかったろうか。》

途中いきなりこんな論述が始まると、だれが予想しただろうか…

自爆ゲリラ攻撃の異様さと、本番AV撮影の異様さとは、似ているかもしれない。


*以上、読書中の感想。