この話がとても示唆的で面白かった。
http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/10/gui.html 「アイコンとしての道徳のこと」
これって「こころ」や「ことば」にも当てはまると思うからだ。
あらゆる「こころ」のはたらきは、ニューロンのオンオフというシンプルな要素にやがては還元できるはず、ということになっている。
ところが要素が無数に組み合わさると、もともとの要素にはなかった性質が全体の性質としてなぜか現れてくる、ということになって、おなじみ「創発」の話になっていく。
しかしこのエントリーにおける焦点は逆のところにある。それは言い換えれば、「こころ」の問題に対処するのに、「こころ」という複雑な全体に当たるより、もっと下っていって、「こころ」を作り出す要素とその仕組みを知り、その単純な働きのトラブルに対処したほうがいいことがある、といった話だ。といっても、さすがにニューロンのオンオフにまで下がれるのかというと、今や「こころ」の薬というのは、けっこうそのレベルのコントロールにまで手を伸ばしているようにみえる。
スポーツなどでも、たとえば時津風部屋のぶつかりげいこと、イチローのトレーニングとでは、「からだ」や「こころ」の捉え方、それを鍛える方法は、たぶん天と地ほど違っていて、このエントリーで指摘されている典型例になるのかもしれない。
さて「ことば」はどうだろう。
「ことば」ももとをたどれば、素朴な鳴き声の組み合わせ以外の何ものでもなかったのだろう。そして今もたとえば歌を上手に聴かせるような目的なら、その要素を直にコントロールするのが早道だろう。
とはいうものの、よく言われるように、声帯が震えて出てくる音波とか紙やモニターに並んだ黒いシミという単純な要素自体を、いくら調べても、ふつう「ことば」として起こっているとんでもなくダイナミックな働きは、まったく出てこない。やっぱり「ことば」の「ことば」たる本質は、それらの要素がどんどん組み合わさっていくどこかの次元で、突然炎のごとく建ち現れてきたのだ、と言いたくなる。
というか、「ことば」ほど不可思議な性質をもつものを、この宇宙で他になにか思いつくだろうか。私はときどき「ことば」の正体が「こころ」以上に分からない。
ただし、「ことば」のトラブルは、さすがに音や点にまで還元しては対処できないけれど、もうちょっと上の次元の要素には分解できるようでもある。たとえば、世間をうまく渡っていくには、この話し方よりこの話し方ですよとか、この文句が来たときはこの文句で応じなさいとか、盛んに言われている。つまり、「ことば」なんてそうした基本要素となるフレーズの巧拙にすぎませんよ、と。まあそういうものか。
「しごと」というのも、電話とメールと面談とあいさつとお願いとおわびとお礼と、そうした要素の組み合わせなのだろうか。
上記エントリーより。
《「理解のシンプルさ」と、「概念のシンプルさ」とは、しばしば相反する》
《理解の深さは、必ずしも生産性の高さを意味しない》
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補足:ただし、「こころ」も「ことば」も、その要素が自分の内部にだけあるとはかぎらない。それらのはたらきは周囲のあらゆる環境との相互作用であり、とりわけ他人や社会とのやりとりなしには、わたしの「こころ」も「ことば」も成り立たないだろう。