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【2019 輪廻転生】

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』asin:4061498835


明瞭な問題設定と順路でぐいぐい進む論考だ。分析の道具となるキーワードが次々に出てくるが、すっきり定義され体系づけられている。分かりやすく、気持ちよい。そうして行き着いたのが「ゲーム的リアリズム」。決定打。

ゲーム的リアリズムとは「現実と虚構がごっちゃになる」といった陳腐で大雑把なことではまったくない。私たちの感受性に新しく訪れた明らかに奇妙な事態だ。その核心は、キャラクター視点からプレイヤー視点への移行もしくは両者の交錯ということになるだろう。それは、小説などの物語世界に入り込むときの自分の位置というか次元というか、そういうものの決定的な異変だと言える。その意味はさておき、その強度や感触だけをあえて喩えれば、観ていた芝居の舞台から役者が降りてきて客の自分に殴りかかった! みたいな異変。あるいは、鏡をのぞいたら自分の顔がアニメの顔になっていたではないか! みたいな異変。しかもそれはいつのまにか浸透している。ライトノベルやゲームを楽しんでいるうちに、みんな当たり前のようにそんな読み方になっていたのだ。この発見自体もまた決定的だと感じられる。

思えばライトノベルの隆盛というのが、私はずっとなじめなかった。まして美少女ゲームにハマるオタク系の若者となると、知らない星の生物にも等しかった。しかし謎は解けた。彼らの世界の見え方が「そうだったのか」と納得できるところまでこの本は導いてくれる。(とはいえ「分かった」とは言っても「なじめた」とは限らない。私はやっぱり「ハルヒ」とか「みくる」という名前に半分の現実味もなかなか感じられない。もし親戚の子供にそんな名前が付いたら、いったいどうしたらいいんだという戸惑いに等しい)

いわゆる純文学とライトノベル、なにか大きな断絶があるぞという直感は大勢の読者がもっていただろう。でもその違いがうまく言えなかった。「えー、表紙にアニメっぽいイラストがあるか、ないか?」くらい。評論家の多くも両者の架橋はもはや困難とみて、どのように匙を投げるかの芸を競うしかなかった一時期もあったと思う。しかし、その断絶をまともに見据えたからこそ、今という時代とその表現の特異性をこのように定式化できた。東浩紀にすればこの断絶はもとより明白で、それを見ようとしなかった者との断絶をこそ、同書ではっきりさせたのかもしれない。

今後は、およそ物語的な表現であるかぎり、それを作るにも評するにも、この本が示した視点を避けては通れなくなるだろう。まさに記念碑的な一冊だ。

キーとなる概念が連発される。前著『動物化するポストモダン』から引き継いだ「ポストモダン」「物語」「データベース」を軸に、大塚英志による「キャラクター小説」「まんが・アニマ的リアリズム」が加わって論は展開。さらに「キャラクター視点/プレイヤー視点」や「コンテンツ志向/コミュニケーション志向」といった新たな区分が加わる。ややこしそうだが、構成や論旨が明快なので、キーワードを重ねることはむしろ泥濘から足が抜け出ていく感じだった。

その最終ステージが「ゲーム的リアリズム」。そのリアリズムの正体は、『All You Need Is Kill』『ONE』『Ever17』『ひぐらしのなく頃に』といったライトノベルやゲームの作品論を読んでいくなかで、徐々に姿を現わす。私はこれらの作品をいずれも知らなかった。それでも、従来の物語体験に比べそれらはどう特異なのか、丁寧に説明されるので、面倒くさがらずに読めば「なるほどそうか!」という驚きは必ず訪れるはず。

さらに舞城王太郎九十九十九』が精緻に解読される。入れ子構造の極みとも言うべきこの小説に、おそらく初めて十分に納得のいく説明がなされる。そして『九十九十九』は「ゲーム的リアリズムの作品」をさらに超え出た「ゲーム的リアリズムについての作品」なのだと捉える。ここにこそ、データベース消費やコミュニケーション志向に彩られたポストモダン時代において、ゲーム的リアリズムが文学として模索できる最も肯定的な意義を、著者は見いだそうとしている。

《私たちは、メタ物語的でゲーム的な世界に生きている。そこで、ゲームの外に出るのではなく(なぜならばゲームの外など存在しないから)、かといってゲームの内に居直るのでもなく(なぜならそれは絶対的なものではないから)、それがゲームであることを知りつつ、そしてほかの物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ、これが、筆者が読むかぎりでの、『九十九十九』のひとつの結論である》。
ポストモダンの「乖離的」な生の問題、すなわち大きな物語の消尽のあと、もはや自分が動物=キャラクターでしかないことを知りながら、それでも人間=プレイヤーでありたいと願ってしまう私たち自身の、いささか古い言葉を使うならば「実存的な」問題と、きわめて密接に結びついている》。


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ゲーム的リアリズム」という視点は、『ファウスト』連載の「メタリアル・フィクションの誕生」でおおよそ示されていた。やはり『九十九十九』が重要だった。その時も目を見張って読んだ。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040716#p1

アニメ『時をかける少女』に東が示した賞賛も、ここに重なってくると思う。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000239.html


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ところで、そもそも文学評論とは、これまでも常に「言語表現は、現実をそのまま写しとっているようで、実はそうではないのです」という形で書かれ、それでこそ効力や魅力を発揮してきた、というふうにもみえる。そのなかで、日本の近代小説がいかにも写実的にみえて実はそう単純ではないことも、よく指摘されてきた。大塚と東の論考もその経緯を踏まえている。そういう観点からは、『ゲーム的リアリズムの誕生』は、独自の骨格を描きつつも文学評論の王道を歩んでいると言えるのかもしれない。また、ライトノベルを待つまでもなく、小説という表現自体が現実と虚構の複雑な往還をそもそもの最初から抱えていた可能性は十分ある。同書が最後に触れた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の感動も、本当にゲーム的リアリズムの感動ではなかったのか、改めて自分の胸にきいてみる価値はある。asin:4101001340


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それにしてもプレイヤーとキャラクターという区分けはとりわけ面白い。以下ふと連想しただけだが、適当に書き留めておく。

永井均のいう〈私〉とは、キャラクターに対するプレイヤーの位置と言えそうだ。ゲームの視点人物に選んだ「私」は、キャラクターとしては他の人物と同類だが、自身をも外から眺めるプレーヤーだけはかけがえのない〈私〉。

ゲームや小説を楽しんでいるとき、キャラクターである登場人物の1人に自分の感情を移入するが、外部でそれをコントロールしているプレイヤーこそが本当の自分であるという自覚は、ふつう忘れない。なにしろ自分が唯一のプレイヤーであることは事実なのだから。

この世を生きているとき(人生ゲームをプレイしているとき)はどうだろう。自分がプレイヤーであるという思いはいっそう強い。逆に、常に感情移入しているこの自分がキャラクターにすぎないという意識はあまり出てこない。そもそも両者の区分はけっこう難しい。

ところが一方で、私こそ唯一のプレイヤーだと信じているくせに、この人生における私というキャラクターはリセットできると感じ、しかも、キャラクターの私をリセットすることでプレイヤーの私自身までリセットできる実感すら生じているようにも思える。この〈私〉にはこの〈人生〉しかない、わけでもないのだ。

就職も転職も結婚も離婚も、プレイヤーではなくキャラクターの私がしていること。そろそろ会社をやめて旅行するか。どうせゲームのアドベンチャーだ。野宿者になろうが刑務所に入ろうが、みんなキャラクターの私に起こっている出来事ですよ、…とそこまで悟れたら人生は楽かもしれない。

というわけで、改めて問う。そもそも「この世において私だけは無数のキャラクターの1人ではなく唯一のプレイヤーなのだ」ということは、事実というべきだろうか、それとも錯覚というべきだろうか。

ちなみに、他人のブログは多数のキャラクターがそれぞれもつアイテムにすぎないが、私のブログだけは私というプレイヤーに直接そなわった事実のように思える。

もうひとつちなみに、知識とは私というプレイヤーの実質であるが、貯金とは私というキャラクターのアイテムにすぎない。というのは錯覚にすぎない。というのは錯覚にすぎない。

いややっぱりそれは錯覚であって、お金もまた本当にそれが必要なときは、今ここの私という一回性に直結する事実であることが分かる。

とはいえ、お金はあの世には持って行けない。しかしもっと言うと、あの世には知識も記憶もすべて持って行けない(要するに死んだらおしまい)。死が永続的であるのに比して、生は明らかに限定的なのだ。金の世界も知の世界もどちらも永続的に見てしまうのは錯覚なのだ。


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いくつか参照
http://someru.blog74.fc2.com/blog-entry-96.html
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070326/1174895714
http://moura.jp/frames/interview/070423/
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070709#p1