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【2019 輪廻転生】

夏目漱石『行人』


夏目漱石行人』を初めて読んだ。いかに古くて有名なものでも小説だけは粗筋や解説に極力触れない状態で読むことにしている。だから『行人』でも「ハラハラドキドキ」そして「ええっ?」という純粋で新鮮な体験を、21世紀にもなってすることになった。

「ハラハラドキドキ」というのは、主人公たるべき二郎とその嫂(あによめ)である直との関係が実際はどうなのか一体どうなるのか、に尽きる。そして「ええっ?」というのは、後半になって話の焦点や次元がふいに変わり、一郎(二郎の兄つまり直の夫)の思索的な苦悩と狂気といったものが全編を覆うので、「ええっ、これってこういう小説? というか主人公は二郎じゃなく一郎だったわけ?」というビックリのことを指す。二郎と直の非常に危うく感じられた関わりについては「それ何でしたっけ」という顔つきで小説は終わる。

読んだタイミングは、今回のタイ旅行で友人の結婚式に加えアユタヤおよびスコータイの観光といずれも終わって最後にバンコクに戻ったころ。退屈がうっすら募ってきてもうそろそろ帰国かなという気分のうちに、宿の部屋や繁華街の喫茶店でひたすらページをめくった。だからすぐあっけなく読み終えた。でも上記のとおりすっきりしない。解説(新潮文庫)をみてもモヤモヤは晴れず、インターネットの出来るところに駆け込んで『行人』のデータや感想を探しまわることになった。

帰国したあとも、『夏目漱石事典』(三好行雄編)なんてものを借りてきてチラチラ読んだりしている。

『行人』は朝日新聞に連載された作品の一つ。しかし途中漱石が胃病に倒れたため5ヶ月もの休載期間を挟み、その前後で小説の主題に大きな変化が生じたとされている。そして、ネットの評でも『夏目漱石事典』でも、後半に浮上する一郎の哲学的もしくは宗教的とも呼べる境地にこそ、漱石の行き着いた深い思想や『行人』の神髄が現れている、といった読み方が主になっているようだ。

近代との遭遇さらには近代と遭遇した日本国民の先達といった視点や、漱石の神経衰弱をどう実感すればいいだろうといった関心から、後半を解読していくのはたしかに面白いだろう。しかしそれより私は、二郎と直の内面の不透明さのほうがじつは遙かに気にかかった。それは「浅読みだ」と解説で断じられていても。

二郎は、兄の一郎から「直(一郎の妻)は御前(二郎)に惚れてるんじゃないか」と打ち明けられる。これは、一郎にとっては重大で深刻な悩みであっても客観的には馬鹿げたそして非常に困った思いこみなのだ、と読み取るのが通例なのか。とはいうものの、それについて直がはっきり否定する台詞はついに出てこない。また彼女の心の中というものが詳しく描写されるようなことは小説として一度もなかったようにおもう。だから、直は本当は二郎が好きなのだという読み方ができないわけではないのだ。

一方、二郎はそんなことあるはずがないといった返答を兄にする。ところが翻って二郎自身は直にどういう気持ちを抱いているのかとなると、これも実は明白な台詞にはなっていない。二郎は小説の冒頭からずっと視点人物で主人公ともいえる立場なので、二郎の内面はかなり踏み込んで書きつづられる。しかも、物語が進むにつれて二郎と直だけになる場面がいくどか訪れ、いずれも二郎の視点から客観的に記述されているように見えるのだが、疑いをもって読むと、やはり二郎の心の中は巧妙に隠されているのではないかと感じられてくる。隠されているのは内面だけではない。仮に二人の過去に何かあったとしても、それを打ち消す証拠が小説として示されているわけではないのだ。それどころか、今読んでいるこの二人きりの場面においてすら、二郎の視点から書かれたことはすべて事実ではあっても、あえて伏せて書かないでいる事実もまたあるのではないか。‥‥と、俄然ワクワクしてくるのだった。推理小説でなんと叙述者が犯人だったというあの趣。

そんな曖昧と疑惑のなか、二郎の視点で語られる直の二郎を誘い惑わすかのような振る舞いの描写は、じつに印象深いものになる。ちょっと引用。以下は、大風のために図らずも宿屋に二人だけで一泊せざるをえなくなり、おまけに停電までしてしまった一場面。

「姉さん」
 嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と呼んだ。
「何よ」
 彼女の答は何だか蒼蠅(うるさ)そうであった。
「いるんですか」
「いるわあなた。人間ですもの。嘘だと思うならここへ来て手で障(さわ)って御覧なさい」
 自分は手捜りに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれほどの度胸がなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。
「姉さん何かしているんですか」と聞いた。
「ええ」
「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いているところです」と嫂が答えた。


このあと二郎は隣の床にいる嫂から「たいていの男は意気地なしね、いざとなると」というふうに言われたりもする。これと意味は違うのかもしれないが、『三四郎』の序盤、列車で上京する途中の三四郎が見知らぬ女と名古屋で同宿し、その翌朝「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」などと言われる。それを思い出す。

ちなみに、こうした宿屋の場面というのは、旅行中に読む小説としての楽しみも広げてくれる。そもそも『行人』の最初のほうは、二郎やその家族が大阪と和歌山を旅行する話として綴られている。どうにも暇なだけの旅をしている私にとって、二郎はもっと暇そうなのでなんだかほっとする。しかも、二郎は当然学生か何かだろうと思っていると、意外にも勤め人であることが判明し、さらにほっとする。季節は夏で蒸し暑く蚊がいたり宿屋に白い蚊帳が吊ってあったりもする。ちょうどその前に泊まっていたスコータイの部屋に、白い蚊帳が吊ってあった。

なお、『夏目漱石事典』「漱石作家論事典」では、「家族」「語り」「狂気」などなど多数の観点から漱石小説が解読されているが、そのうち「狂気」それから「姦通」のページにおいて、この『行人』が主たる題材になっている。

《もし姦通小説というものが、大岡昇平のいうように「姦通そのものが対象なのではなく、事件から立ち上る蒸気のようなものでもっている」(『小説家夏目漱石』昭63)のだとしたら、『行人』は紛れもなく「姦通小説」の範疇に入るだろう。》(玉井敬之)


夏目漱石『行人』 ASIN:4101010129

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タイからは先週帰国。旅行中のことももう少し書くつもり。