東京永久観光

【2019 輪廻転生】

島国ブログ


北田暁大東浩紀トークショーを見に行った(参照)。『ユリイカ』もぱらぱら目を通した。インターネットやブログは広範な現象だが、やはり「はてな」は話題の中心にくる。インターネットは広がりも繋がりもリゾーム化してまったりして動物化してロマン主義シニシズム化しているはずなのに、この偏りはいかに? 『嗤う日本の「ナショナリズム」』や『ユリイカ』をつい手にするような人が、たまたま「はてな」に集うようになっただけで、他のいろいろなものをつい手にするような人はまたそれぞれ別のところに集っているのだろう。それでも「はてな」は、なにかこうハブやメタの位置にあるようにみえる。私の生まれ育った日本という国がたまたまいくらか世界の中心にあるのと同じ程度であれば、「はてな」もまたブログ世界の中心にあるのだと思って、これからも叫ぼう。

それにしても、北田氏と東氏の会話は、コンビニ前にたむろしてジュース飲んでただダベっている最近の若者のようでもあった。コンビニ前でみんながみんなあんなテーマを語っているわけもないのだが、口調やたたずまいが似ていた。だから「なんだ北田くんじゃないか」と近所の知りあいのごとく声をかけたくなっても不思議ではない。それは、街中でタモリにあって「ようタモリ」と肩をたたいてしまうのとまったく同じ、かというとそうでもない。「はてな」は、テレビのように眺めたり論じたりする対象でもあるが、我々がそのなかを動く場であり、互いの動きそのものでもあるのだから。じゃあ「はてな」は会社や学校や地域のようなものかというと、ほとんど現実の関わりはないから、やはり違う。たしかに共同体に似た性質はある。だからこれを通常の世間のつきあいに還元してもいいし、これにコミュニティの可能性を探ってもいい。だがそれより、言語の意味の現れ方にしても、人間の関係の現れ方にしても、人類史上ちょっとないような新しい状態なのだと捉えたほうが、どうしたって面白い。では、同時に、言語や人間の長年なじんできた状態はいよいよ諦めるべきなのか。いやそんな大それた苦労はいらない。大人から子どもまでいつのまにかもうそうなっている。

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『嗤う日本の「ナショナリズム」』についてはこちら
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050326