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【2019 輪廻転生】

「現代批評の核」


柄谷行人福田和也の対談『現代批評の核』(新潮8月号)。結論は「近代文学は終った」ということで、それだけ取れば「またかい」となるのだが、じっくり読み直してみると、その根拠に当たるところの「現在に特有な状況とその困難」がどういうものであるのかが、さっくり語られている。まあそれも多くは「聞いたふうなこと」だが、よく考えてみるとそれらは結局「柄谷行人から聞いたふうなこと」だったのかもしれないわけで、いずれにしても非常に面白かった。

「現在に特有な状況とその困難」と書いたが、早い話が「テクノロジーの高度化」そして「市場経済グローバル化」ということになる。この私なりの括りで二人の談をまとめておく――。



高度なテクノロジーの下で思考に何が残されているのか――対談はこの問いから始まる。これは、福田が新著『イデオロギーズ』でファシズムをテクノロジーを絡めて問うたのと同じだし、柄谷もゲーデル的な形式化という観点ですでに考えてきたことだが、その問いが日常の現実になったのが現在だという。…もうこれだけで先を読む気がしなくなるかもしれないが、特に難しいことではなく、コンピュータとインターネットが計算力や通信速度を過度に増しながら生活の隅々まで普及してしまった、というところに焦点がある。というか具体的にはケータイとメールであり、すこぶる身近な話題なのだ。

ではこれがどういう困難を呼んでいるか。最もわかりやすいイメージはこうだろう。《今、人間が考えることにはほとんど意味がない。なぜならわれわれは、インターネットなど、地球的コミュニケーションのなかで支配された、ネットワークシステムのインターフェースにすぎないからだ》。これは福田がノルベルト・ボルツを引いた言葉。しかしあまりにわかりやすくてわかっているのかどうかがわからなくなるようなイメージだとも言える。柄谷はもっと直観的に、かつては大阪にいたら違う空間にいたと感じたのに、今はどこにいるかということが意味を持たなくなっている、あるいは、恋愛でも電子メールだとだいたい一週間で破綻する、などと冗談めかして言う。さらに、我々は自分の内面というものを実は手紙に見られるような《遅れ》や《のろさ》を通じてのみ経験できるのだが、通信の加速でそれが成立しなくなったのでは、と本質らしき点も見抜いている。



市場経済原理のグローバル化という問題は、柄谷がしばしば取り上げる「交換の3分類」に絡めて捉えられる。交換には、市場経済を形成する商品の交換だけでなく、国家による交換(つまり税金を集めたうえで財政としてばらまく)、共同体や家族による贈与とお返しという形の交換がある。グローバル化とは、このうち市場経済の原理だけで世界中が牛耳られることであり、そのとき重要なのは、かつては世界規模の資本主義に対抗できた国家が、現在はもはや機能していないという点にある。

…こうまとめると、やはりいかにも聞いたふうなことなので、ひとつエピソード的に加えるなら、柄谷は、今年の「ヨン様」と去年の「ベッカム様」さらには韓国の村上春樹ブームがみな同型だとみなし、これらは西洋人への憧れといったものですらなく、グローバリゼーションとテクノロジーがもたらした現象であり、ここに文学の観念を持ち込むことはできないだろう、と述べている。気の利いた言い様だと思った。



では、こうした二つの状況が文学をどのように終らしめているのか。…という明瞭な論証をする対談ではないが、少なくとも次の柄谷の弁はその骨子の一つだろう。《かつて、文学はネーションの形成にとって、またナショナリズムの核心として重要な役割を果たしたと思います。しかし、今グローバリゼーションに対して、文学はもう対抗する力を持たないでしょう。》 要するに、「市場経済グローバル化」によって国家が機能しなくなったのだから、国家(すなわち近代国家)と密実一体の機構だった近代文学は、もう終るしかない(理屈だけみれば非常に単純)。



さらに「テクノロジーの高度化」も絡んであれこれ指摘される――。福田は、昔のドイツロマン派を紹介しつつ、人間の感性というものには理性を超えた美や真理が現れるのであり、そうした《客観的に策定されて検証可能なものとは別の何ものかが、文学の対象であり、近代文学のコア》だと断言する。そういうものとしての文学は終ったということになろう。

これと平行して、小説というのは読むという時間の経験が本質的であり、言い換えれば《内面を書くのは小説にしかできない》ということを福田は重視し、現在はその内面が成立しなくなってきたとも言う。柄谷も、「自分探し」というのは内面性ではなく《内面性がなくなっている状態だからこそ、自分を探すのです》と述べている。

このほか、「歴史が終わった時にモード(流行)がはじまるんだ」というフランス第二帝政に関する評が持ちだされ、さらにもともと規範というものを欠いたアメリカでは最初から流行だけがあった、といった分析もある。

《情報化》といってしまうと、またもや単純すぎるのだが、それでもこれら全体は自然とその言葉に収斂されていく。



主たるまとめはここまでだが、刺激的な論考はこれ以外にも飛び出してくる。とりわけ示唆的だった二つを書き留めておく。



一つは、原理主義テロリズムについて柄谷の理解の仕方。国家による暴力と国家に対抗する暴力を区分けする考えは少々ありきたりに思うが、そこをさらに突っ込んで、テロとは、市場による交換ではなく、互酬(贈与とお返し)という交換がその原理なのではないかとみなすのだ。その文脈で、《抑圧された者には、やりかえさないかぎり、いわば「気がすまない」ことがある》と言われると、テロをめぐってこれまで以上に深い溜め息が出てしまう(いかにも当っていると感じるから)。

これに関連して、市場経済グローバル化によって国家による経済も共同体による経済(互酬性)も不可能になった今、残る交換の原理としては普遍宗教が浮上してこざるを得ないと、柄谷は考えている。福田は完全には同意しないものの、グルーバル化に対抗するためには原理主義もまた別の意味で国家を超えた普遍の価値を持つのが必然だと考えているようで、《しかもそれは一種の暴力性を帯びるものにならざるをえない》だろうと応じている。いずれにしても、文学はそうしたことを考えるには人畜無害で期待できないというのが柄谷の結論。

もう一つ、これぞ一番先に紹介すべきだったかもしれないが、「近代のブルジョア社会や生活を総体として描くのに最適な文章形式こそが小説だった」という趣旨の福田の発言。すでに指摘されていたことなのだろうが、なるほどその通りだなと面白くなる。



毎度ながら、軽くまとめるつもりが長くなった。ここまで長いトピックにつきあう人もあまりいないように思う。ここまでは前置きで、本当はそれに対して自分の思うところを聞いてほしかったのだが、もう疲れてしまった。それはまたあした。



*《 》は引用ですが、「 」の多くは私のパラフレーズにすぎないので、ご注意。


イデオロギーズ/福田和也
イデオロギーズ