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【2019 輪廻転生】

「現代批評の核」2


柄谷行人福田和也の対談「現代批評の核」(新潮8月号)の中身を2日付けでまとめた。今度は、それを読んで巡らせた自分の思いを書いてみる――。



対談では現在の「テクノロジーの高度化」がまず問われている。ただ具体的に挙がるのは結局ケータイやメールで、それは問題の極点がまさにこのツールに現れているからだろう。だからこの問題は、使用者自身がもう実感していたはずのことだ。

私自身ここ数年を振り返ると、生活や仕事や社交あるいは思考、それらの実に多くがネットやメールという機構を通じて成立していることに気づく。そしてその記録や記憶つまりは経験や知識といったものがまた、そのままディスクに残っている。とりわけ、ウェブにこうして日記を書きながら過ごしてきた年月というのは、それまでとは質的に明らかに違った歴史を生きてきたと言ってもいい。



そんなことを考えていたら、Gメールのインビテーションが届いた。Gメールは、ごぞんじの通り、個人のメールの全部がネット上のサーバで一括管理してできるサービスだ。サーバはギガ単位なので、なんと一生分のメールも収まってしまうらしい。これは凄い。上に述べた自分の生活や仕事を統合したものが、今度は世界共通のネットワーク上に移るというわけだ。逆に、インターネットとの連結が断たれれば、私にかかわる何もかもが瞬時に消えてしまう恐ろしさがある。こうなると「人生のグローバル化」と呼んでみたくなる。あるいは人生の情報化、可視化、顕在化。

加えて、Gメールを使うにはパソコンやOSを常に世界標準で購入し整備する必要がある。つまり言うまでもなく、この経済圏から外れていてはGメールも交換できないというわけ。ここに、対談のもう一つのキイワードだった「経済のグローバル化」も浮上する。おまけに、インビテーションは英文だからスパムメールになりかねないところだったのだが、ともあれ言語のグローバル化というかアメリカ化といったようなことも、いやでも感じられる。



私は、もうインターネットやGメールとの連結を拒むことはできない身体に(というかパソコンに)なってしまった。ただこうしたまさにグローバル化する情報の流れに「棹さす」作業くらいなら可能だろう――それは、流れに逆らって留まるという誤用の意味でもいいし、流れに乗ってすいすい進むという本来の意味でもいい。そうした連結と作業の中から出てそのままネット上に定着していく無数の文章や思考には、それを文学や哲学と呼ぶか呼ばないかは別にして、インターネット以前の文章や思考とは本質的に異なった感触を伴っているように思われる。実際にネット生活をしての実感。

話を大袈裟にしてみると、ある時期から長いあいだ、人間の精神的な営みのほとんどは、印刷というテクノロジーと書籍という媒体に圧倒的に依存して作られ積みあげられ広がってきた。森羅万象のイメージすべてが、つまるところ本という形態とその特有のクセを介してしかアクセスも獲得もできなかっただろう。ところが現在のインターネット生活はやっぱり違う。ごく単純なことでいえば、たとえば「オリンピックの歴史とは」「アメリカ大統領選挙の行方は」という時に、「グーグル」で調べがつく、「はてな」に問うことができる。また自分が「ブッシュ逝ってよし」と思ったなら、それはそのまま文字化でき、原理としてはグローバルなブラウズやディスカッションが即座に可能になる。



こう考えてくると、福田が言うように「小説とは近代のブルジョアの社会や生活を描くのに最も適していた」のだとしたら、テクノロジーの高度化やさまざまなグローバル化のなかで塵や芥みたいな現代の群衆のうごめきを示すには、ブログほどぴったりのものはない。


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ここからはおまけの話――。「グローバル経済」というのは流行り言葉で、安易に使っても文脈に当てはまってしまうところがある。しかし最近なら、たとえば中国の市場経済の激動が日本を否応なく巻き込んでいる件などでは、ちょいと内実を伴った感慨をおぼえる。アエラなどで話題になったが、日本企業がコールセンター業務(商品ユーザーからの電話受け)の実務を人権費の安い中国の大連などに移動させ、しかも日本人を中国人に近い給与(時給260円とか)で雇うという方式が目立ってきているという、そんな一件(参照)。

そして素人考えが膨らんでいくが――。このとき、時給260円というのは、進出する企業の都合に合わせたものであり、日本国内の経済水準は無視されるのだから、これぞ「グローバル経済は国を超えていく」なのだろう。もちろん中国の経済水準には合っているのだが、それとてやはり企業の都合に合う水準が、たまたまそれだったというにすぎない。また、中国で雇われて時給260円の日本人がいる一方で、同じ企業に勤めて高給をとる日本人正社員もいるわけで、国民の経済という一体感はいよいよ事実として無化していくのだ。階層としては「日本人/中国人」から「富裕な日本人中国人/貧困な日本人中国人」という分類に移行していくのかもしれない。その場合、中国における市場原理主義というのは、なんとなくだが、日本以上にアメリカ以上に容赦のないものになるように予想され、イヤな気分になる。しかしまあ、時給260円の日本人も中国の物価が安いおかげで十分暮していけるというのだが、ただそれはそれで、元という通貨がグローバル化していないことが大いに関係するのだろうし、全体として一体ここで起こっていることはどういうことなのか、少々わからなくなってくるが、とにかくいろいろあって面白い。



ところで、グローバル経済の主役が国家や国民ではなく世界企業であるとしたら、そのうちたとえばトヨタなんかが独自通貨を発行したりなんてことはないのだろうか。奥田氏の顔が紙幣になって単位が「Mya」とか。…またイヤな気分になった。



気分はどんどん荒れて、さらについでながら。中国では時給260円でも生活OKというけれど、じゃあ年金はどうするというと、そこはなるべく触れたくない部分だろう。どっちにしても今、日本では年金というのは誰も本気で触れてはいけない部分みたいだから、お互い「どうにでもなれ」という気分で案外一致しているとか。…いやこれは冗談であり、年金はちゃんとしなきゃダメだ。

国家の経済がもし本当にグローバル経済にやっつけられ損なわれていく方向にあるのだとして、それでも日本の役人というのは、その国家が消える最後の日まで自分たち役人の権益を守り抜く覚悟だけは固めているのではないかという、SFが思い浮かんで、気分は最悪。なにがなんでも守りぬくべきは、年金を集めて太る厚労省ではなく、年金を収めて細る国民のほうに決まってる! 仁義なきグローバル経済に国家は手の打ちようがないという顔をして、でも官僚の数千万単位の退職金なんてものだけが、まるきり市場経済をすり抜けているように見えるのは、一体どういうわけだ?