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【2019 輪廻転生】

ポスト・ムラカミの日本文学(再読)


日本の現代文学の流れを語るとしたら、村上龍村上春樹の出現がまったく新しい局面をもたらしたというあたりまでは、もう定説のようだ。しかしそれ以降80〜90年代を含めた概説となると、いまだに「どこをどう辿っていいのやら」だったと思う。そこに初めて示された簡潔にして絶妙なチャートが、仲俣暁生ポスト・ムラカミの日本文学』(02年刊)だった。文学オンチのあなた! もうクイズ・ミリオネアでこんな問題が出ても心配いりません。「90年代に、ルームシェアという題材を、単なる風俗ではなく、新世代の微妙な人間関係として、描いた作家は誰? ―― A村上春樹 B阿部和重 C吉田修一 D星野智幸

あっと膝をたたく最大の読みどころは、85年のプラザ合意こそが文学の曲がり角でもあったと洞察している点だ。その結果円高によって米国カルチャーの流入が加速したことの影響を重視したうえ、そこからバブル崩壊に到るまでの日本の変貌を、文字通り日米経済戦争と位置づける。その視点によって、90年代にデビューした阿部和重の初期作品を、グローバル資本の植民地あるいは戦時下だった渋谷の風景として読み解く、などしていく。

なお、このチャートが見渡している時代の源流に当る村上春樹村上龍高橋源一郎といった作家たちは、同書はもちろん的確に解説し大いに評価している。そのうえで、もう一つ読みどころを挙げるなら、現在の村上春樹への批判だろう。上にあげた資本主義の変貌に対して戸惑いを示して以降の村上春樹は、オウム事件阪神地震という理不尽な力に対して有効な答を出せなかった、と断じるのだ。それに加えてテロと戦争に象徴される深刻な暴力やコミュニケーションの困難に彩られた現代は、《…もう、「アメリカ」のポップカルチャーを武器にして古い日本と戦うだけでは新しい小説は書けない時代》と考える。

こうした状況で同書が注目するのは、もはや村上春樹ではなく、二人の村上の文学をそれぞれに受け継いだ新しい作家たちだ。阿部和重吉田修一星野智幸堀江敏幸町田康赤坂真理の名前が挙がっている。(舞城王太郎などメフィスト系の作家は、02年刊ということもあってか、言及されていない)


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さて、同書を読んでいると、自らの体験としてよく知っているここ20年余りの世相と、同じくそれなりに読んできた同時代の小説とが、あまりにするすると結びつく。すると快感と同時に妙な不審にもかられる。一つは「これは自明ではないか、単純すぎないか」という思いだ。これはしかし、このチャートがあまりに正しく機能するので、「こんなこと自分だってとうに分かっていたはずさ」という錯覚が生じているだけなのだろう。

もう一つは、同書も我々も当然の前提にしていると思われる「小説とは時代を反映するものだ」という基本的な分析態度に対してだ。とりわけ経済史に下支えされた小説史がここでは展開されていると言える。これについてはこう思う――。政治経済社会文化にまつわるどんなファクターでもそれを抽出して座標化し、そこに目立った小説作品を年代順にポイントし結んでいくなら、必ずなんらかの線形のグラフが描かれる。それは当たり前のことかもしれない。しかし実際の文芸評論は、その基礎資料作成を、「自明のことだから」という言い訳のせいか、あるいはなんらか正当な理由があるのかはともかく、近年は大いにさぼってきたように見える。同書のように一般性のあるファクターを的確に選んで有意なグラフを描くという感度自体が、鈍っていたようにも見える。その結果、文学オタクと文学オンチの乖離は広がるばかりだった。そうなのだ、同書は、文学好きだけでなく文学嫌いでも日本の現代文学をさっと一覧して納得できる。そこがなにより有益だ。


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それに関連して。たとえば今どきプラザ合意をまったく知らなければ「経済オンチ」と言われるだろう。それはたぶん、村上龍村上春樹の区別がつかない「文学オンチ」、辻と加護の区別がつかない「芸能オンチ」にも似ている。しかしこういう経済オンチや文学オンチを増やすも減らすも、経済オタクや文学オタクの側が、経済や文学をどのように共通の言葉で語れるかにかかっているのだから、担当の皆さんは頑張ってほしい。

しかしいっそう重要なことは、このプラザ合意が経済のみならず文学の重要ファクターだったらしいという点にある。つまり、文学オンチや経済オンチにならないために、それぞれのオタクになる必要はないにしても、どちらか一方が完全にオンチであったら、すなわち両方のオンチになってしまいかねない、ということ(プラザ合意を知らずに阿部和重は語れないし阿部和重を知らずにプラザ合意は語れない、かもしれないということ)。ここ数年いろいろ本やネットを読んでいて、中くらいでいいから各種オンチだけはなるべく回避できる共通の知恵というのが欲しいと思っていて、それは一般的な努力でなんとか可能なんじゃないかとも期待している。「プラザ合意文学論」というのも、文学や経済の区分けを超えて重要な、中くらいのチャートなのだ。

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「小説とは時代を反映するものだ」という前提については、もう一言。

国内外の政治情勢の激動にもかかわらず、90年代初頭の数年間、日本では見るべき新しい小説が、ほとんどと言っていいほど生まれてきません。

海の向こうの戦争に気を取られているうちに、日本国内がグローバル資本主義の戦場になりつつあることに気づいている作家はとても少なかったのです。

ぼくはハシのその後の物語を書くことが、村上龍以降の日本文学の一つの課題になったような気がします。

かつての村上春樹のように、「高度資本主義」に対して「やれやれ」と言っていればいい時代ではなくなってしまったのです。かといって、いまさら「高度資本主義」以前に戻ることもできません。

《(オウムの事件や阪神大震災に関して)…コミュニケーションの可能性が全く存在しない、まさに理不尽な力の発現でした。絶対的な他者のような存在を、どのように小説の表現に織り込むかという課題を、世代を超えて、作家たちに突きつけたように思います。

我々は小説というものを、世相や歴史の反映として、さらには先行する小説の反映として、読み解き見通そうとする。それは文学史を綴る当然の態度だろう。実際にリーズナブルな効力も発揮するだろう。上に引用したように、同書もまたそうした作業をしているし、80〜90年代の核心を突く作業だったとも思う。それでも、そもそも小説を書くということの動機は、それどころか小説を読むということの動機も、少しも自明ではないと感じることも、我々はある。

小説という、たぶん出来上がるまでは、あるいは読み終えるまでは、とりあえず正体不明の文章をめぐって、書き手も読み手もそれぞれ孤独に言葉をつむぎ闇雲に言葉をつなぐ。カオスと秩序がせめぎあうような複雑な感覚と言いたい。したがって、またもや比喩になるが、そうした小説の発生と連鎖を分析する座標として、必ずしもグラフが線形になるような共通ファクターを用いなければならないというわけではないだろう。いわば非線形の目茶目茶なグラフにしかならないようなところにも、なにか思いもよらない真相が隠れていると思いたい気持ちもある。それは分析できないがゆえにいくらでも神秘化できるところが、厄介なのだが。

とこういうことを考えると、またもや保坂和志の「小説をめぐって」(新潮に連載中)が、まったく漠然としたつながりでしかないが、思い浮かぶ。(その第五回


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『ポスト・ムラカミの日本文学』 ASIN:4255001618