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【2019 輪廻転生】

今年の日本文学大賞候補だとは思うが・・・


平野啓一郎『決壊』。もう読み終えた。せっかくなので、続けて感想を書いておく。
(ここまでは http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080904#p1


社会小説?

下巻に入って殺人事件が起こり崇が逮捕されると、その取り調べや、殺された弟である良介の妻や、崇と良介の両親らの苦悩が、描写されることの中心になっていく。殺人に関わったらしい少年の父母や学校の教師たちの生々しい苦悩もそれに加わる。そこは読み応えがあった。特に、上巻で彼ら一族各人の生態がやけに詳しく描かれていたのが、「ああここで生きてきたか」と思った。

しかしこれによって、『決壊』は、殺人をめぐる哲学小説ではなく、殺人事件をめぐる社会小説になった。小説のなかでは、その事件をうけたテレビ討論で一人の少年が「なぜ人を殺してはいけないのですか」と問いかけるが、そこでも、その問いの本質が掘り起こされるというより、それに腹を立てて説き伏せようとしたKATUZOというコラムニストのもの悲しさばかりがまさり、なんというか、小説が現実のパロディをやっているだけのようにも感じられた。要するに、的確に詳細に描かれていくのは、殺人者の苦悩ではなく、殺人に巻き込まれた者たちの苦悩や騒動なのだ。

そのほか被害者救済という問題、加害少年の親に対する正義感からくる攻撃といった問題も小説の中に現れてきた。しかしこれこそまさに社会の問題(にすぎないの)であり、それはそれで大切だし解決が必要だと思うが、この作家とこの小説には、そうした社会批判にとどまらない問いや思索を予測していたので、やや当てが外れてしまった次第。

ちなみに、死刑ということに赦しということを絡めた見方が少しだけ書かれていて、それはこれまで触れたことがない見方だったので、感銘を受けた。


誰の内面に乗っかって読むか

なお、小説の視点人物はこれまで同様くるくると変わるのだが、それらの視点のうち最も安定し読んでいてとりあえず信頼してしまう視点が、刑事の視点になってしまったりする。崇という殺人事件の容疑者の心の揺れではなく、取り調べをする刑事の心の揺れこそが、よりリアルで包み隠さず伝えられていると感じられたのだ。殺人にかかわったあの少年も、逮捕されたとたんその内面はもう書かれなくなる。

そして、すべての黒幕でありかつ深い意味で本当の悪魔であった「悪魔」と称する人物すら、あっさり逮捕されてしまい、その肉声はもうほとんど伝わってこない。その人物像が本人以外の者からワイドショーのごとく一応適当に語られるが、そんなものではもちろん物足りない。法を犯して逮捕された者は司法当局に完全に囲われ、彼の言い分にはアクセスできないのが現実社会というものだが、べつに神の視点をもつ小説までそうならなくていいのに、と文句を言いたくなった。

結局のところ、「なぜ殺したか」を、殺した者の実感や理屈として語られる分量が、私の期待に比べると不自然なほど少なかったのだ。


悪魔はブログに目をつけた

ただ、悪魔から郵送されてきたDVDの映像として、殺害現場のもようが描写されるところでは、悪魔がよって立つ思想がやっと少し語られたと感じた。「幸福を追求する人間の心こそが悪魔を要請する」といった思想だ。

その悪魔の言い分のうちちょっとメモした部分があり、思想の柱というわけでは全然ないが、今読んでもけっこう興味深いので、ここに引用。

「テクノロジーにも、悪魔の住処はある。私はネットで、世界の〈幸福〉な表情を一望して、殺されるべき人間を物色していた。そこで、お前の日記を見つけたのだよ。――そう、〈幸せ〉という語句から! お前を私に紹介してのは、グーグルだ。悪気はなかっただろうがね。」

悪魔が殺す人物として良介を選んだのは、良介のブログのいわば「ありがちさ」が決定打だったっみたいな話。このあたりは、なんだか読んでいてちょっとため息が出た。


真正面の問いはどうなった?

私は何を期待してこの小説を読もうと思ったんだろう。今はそれがだいたい分かっている。人が人を殺してもよい場合があるとしたら、それはどんな場合なのか、しかしそれでもやっぱり殺してはいけないと思うのは何故なのか、でもそれは本当に正しいのか、みたいな直球の問いだったように思う。

そして、殺してもよいという理屈については、悪魔の弁を通してそれなりに書かれていたと思う。(カラオケボックスで少年に語って聞かせた理屈、および、上記DVDで良介を問い詰めているときの理屈)

あの、悪魔が良介を問い詰め殺害するシーン。まさに最悪の展開だった。上にも書いたが、このDVD映像のパートを通して、悪魔が殺人を志向する理屈はよく理解できた。たしかに、神はいない。地獄も天国もない。それがわかっているなら、人を殺そうが何をしようが、根本的にはかまわないことになる。

しかし、その理屈は、たとえば秋葉原の無差別殺人者がいちばん言いたい理屈ではないと、私は感じた(もちろん、この小説が書かれたのは秋葉原の事件の後なので、もともと関係しているわけはないのだが)。あるいはまた、日々自爆テロを実践するイスラム系などの者たちがいちばん言いたい理屈でもないと、私は感じた。

この悪魔の主張する殺人肯定の理屈は、昔からあるクリシェにすぎないという気がしたのだ。たとえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(せっかく苦労して読んだのでたまには引き合いに出す)の時代から展開されている主張とあまり変わらないのではないかと。人が人を殺すというのは普遍的なことだからその議論もまた昔から変わらなくて当然なのだ、とも言える。人を殺すという動機や目的は、カラマーゾフの時代と共通でありまた国を超えて共通なのかもしれない。しかし一方で、現在の殺人者が殺人をせざるをえない苦悩や理屈のなかには、現代特有としかいいようのない部分が間違いなくあると、私たちは感じている。その代表がやはりテロなのであり、このあいだの秋葉原殺人もまたそうであると、私は思うのだ。

つまり、私は、秋葉原の殺人者が今という時代と日本という国においてどんな苦悩をしどんな無茶をしたのか、それについてこの小説を読みながら深く考えを進められたらいいと、ほんとうは期待していたのだろう。あるいはまた、イラクアフガニスタン911のニューヨーク等で周囲の者の命を自らの命と一緒に奪ってしまおうと望む者たちについても、深く考えを進められたらいいと。その者たちにいったいどんな個別的な論理や倫理や苦悩や無茶があるのか、考えを進めたかったのだろう。

いや実際、この小説のなかでも、お台場でフジテレビの局アナウンサーがクリスマスイベントの中継中に劇場型の自爆テロで殺される。だから、911とか自爆テロについて考えたいという期待はべつに過剰ではなく、この小説はそもそもそこと通底しているのだ。テレビ生番組での自爆テロなんていう想像自体も、今やだれでも平気でやっていることであって、それほど唐突ではない。でも小説では、そのお台場テロという事態をめぐって特に考察が深まったようには感じられず、やっぱり不満が残る結果となった。

お台場テロと並んで興味深かったのは、「遺伝と環境がすべてを決定するのだ」みたいな冷徹な論理を悪魔が語っていたことだ(現代日本のブログもよく語っている)。・・・でもなあ、それでもやっぱり我々は「人間性」とか「わたしの人生」とかいった言葉で感じとれるようなものを基盤にして生きていったほうがいいんじゃないの・・・ それとも「そんなのは19世紀や20世紀のロマンと錯覚にすぎません」と自覚すべきなのか・・・ これについては、崇と室田の議論でも二人の考えの違いとしてうっすら現れていた。こういう問いをもっと膨らませたら、カラマーゾフの時代にはできなかった、新たなモラルへの問いやアプローチになりえたのだと思う。

というわけで、「殺人とは何か」といった巨大なテーマを、上に揚げたような現代特有の観点で探っていったのであれば、それこそ『カラマーゾフの兄弟』みたいに登場人物の誰かが延々演説したりしても、私はけっして退屈しないむしろ大歓迎したかもしれない。


崇の本音って?

ここまでと対照的に、崇という人物については、たとえば恋人と二人で浸かった風呂の水がどうのといったことに至るまで、非常にしっかり見つめられていた。

そしてその崇は、小説の最初あたりで自死を匂わせていたのだが、そのとおりラストで電車に飛び込んでしまう。しかし、崇の本心もしくは秘密のようなものは、「まだ語られないのかな」「そろそろかな」「そうかいよいよこの後かな」と思って読んできた私は、どうも最後まで明かされたように感じないまま、小説は終わってしまった。(あとから思えば、崇の自死の根拠は、その最初のところで、ちょいと高尚で難解だが素直に語られてはいたのかもしれない)

ちなみに崇は、子どものころから飛び抜けて勉強ができた。難しい大学を出て、学者や外交官の資質もある。しかもモテ系イケメン。肉体もたるんでいない。だから、生活が理由ではなくいわば哲学が理由で自殺したことになる。そうした崇の自問自答はたしかに哲学小説か。でもそれならそれで、崇の死という核心について、もっと愚直にかみ砕いて説明してもよかったのではないか。

ただ、いずれにしても私は、無差別殺人なんていうことがこの社会でもこの小説でも実際に起こっているときに、そうした哲学に一番の関心を持っては読まなかった。

でも崇は、作家が最も親近感を寄せて描いた人物だったのではないかと思われて興味深かった。もっと言うと、平野啓一郎自身の境遇や苦悩(のようなものがあるとしたらだが)が、崇には重ねられていたのかなと思う。


続く

きょうは、『決壊』という小説の内容=何が書いてあるのか=についてもっぱら書いた。じつは『決壊』については、小説の形式=どう書いてあるのか=についても、いろいろ思うところがあった。それも書くつもりだったが、長くなったので、また次回。お楽しみ(な人はあまりいないかもしれないが)に。


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決壊 asin:410426007X
カラマーゾフの兄弟 asin:4334751067