シンギュラリティなどと浮かれるのはナンセンス――東浩紀がそんな趣旨の断罪をしている。
テクノロジーを基盤にしたその進歩的な世界観を「大きな物語」の復活と捉えていて、なるほど!と思った。
また、この立場の代表としてユヴァル・ノア・ハラリと落合陽一を批判。
ハラリは『ホモ・デウス』で人類は疫病や戦争に勝利したと書いていたが、実際に私たちはコロナでこれほどガタガタしているではないか、と言う。ウクライナの戦争から世界が終わる気配すらある、とも。
これを読みながら、<科学は問題を克服できるけれど、人間のほうが問題を克服できない>ということかなと、私自身は思った。
コロナもウクライナも、じつは最適解は割り出せる。しかし多数の人がそれを認めない。それが深刻な問題のように見える。
昨今 コロナやウクライナをめぐる人々の付和雷同をいやというほど目の当たりにし、東浩紀は<民主主義=多数決とは誤ることと見つけたり>といった絶望に苛まれているように見える。以下でもそれは鮮明だった。
https://bungeishunju.com/n/n96593672c857
茂木さんは東さんの論考に、強く共感していた。
https://twitter.com/kenichiromogi/status/1515071104989097985
私としては、ハラリの本も落合陽一の本も面白すぎた。ともに21世紀の私たちの動向を明らかに占っている。必読書だと今も思う。
それから、ここ5年ほど読み続けている『無限の始まり』(デイヴィッド・ドイッチュ)は<最後に科学は勝つ♪>と明瞭に宣言する。今回の論考とはくっきり対照的だ。
とはいえ、《あまり指摘されないのだが、2010年代は思想史的には「大きな物語」が復活した時代だったといえる》という洞察には、まさに目が覚める思いだ。
私たちは、神様を信じきれず、近代を信じきれず、共産主義も信じきれなかった。「大きな物語」は息の根を止められたことになっていたのに!
(4月22日)
さて。改めて問う――「シンギュラリティとは大げさな物言いか?」
私は、シンギュラリティとか人新世とかの用語を面白がって使ってきた。しかしただ面白がってはいない。真実味を確信してもいる。
なぜなら、人類だけは過去にもシンギュラリティ級のジャンプをいくつも経験してきたと思うから。
言語。文字。書物。
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一神教。