東京永久観光

【2019 輪廻転生】

会田誠関連

私が「差別の絵画は絶対ダメ」とは感じないのは、けっきょく「差別は絶対ダメ」とは考えていないからなのだろうか?

話がややこしくなるが: そうすると、たとえば「体罰の絵画は絶対ダメ」とはまったく感じない私は、けっきょく「体罰は絶対ダメ」とは考えていないのか、というと、そうではないと思う。

というふうにして、体罰の実行と体罰を描いた絵画はまったく異なるが、差別の実行と差別を描いた絵画はけっこう似ている、ということに気付かされる!

「その行いが差別かどうか」は要するに曖昧なのではないか。「その行いが体罰かどうか」に曖昧なところがまずないのに比べて。

私は、会田誠の「犬」シリーズを見て「面白い」と思う。そしてそんな自分に曖昧な後ろめたさをおぼえる。それはきっと、「これは差別ではないんだ」と信じる気持ちと、「これは差別かもしれない」と疑う気持ちとが、混在しているせいなのだ。

絵画の専門家ではなく差別の専門家でもない私でも、ここまで書いたことくらいは感じたり考えたりできる。

会田誠の展覧会を開催する人または糾弾する人が、今書いた程度の曖昧さへの戸惑いを抱えているのなら、私はその人に共感する。でもどうなのだろう?


参照:
http://www.roppongihills.com/feature/aidamakoto/aidamakoto
http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/group-statement/