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【2019 輪廻転生】

★探究(1)/柄谷行人

 探究(1) (講談社学術文庫)


柄谷行人『探究1』を読み直すことにした。20年前に出会った本。あまりにも大風呂敷を広げ、あまりにも抽象性の高いテーマを無理やり浮上させる。何故だ、動機は何だ。最初はそう首をひねるけれど、柄谷は、学問あるいは哲学の全体が陥っている罠を壮大に批判したいのだと、徐々にわかってくる。

参照されるのはウィトゲンシュタイン哲学探究』とマルクス「価値形態論」。意味があるから言葉が通じるのではなく、言葉が通じるから意味ができる。ルールがあってゲームをするのではなく、ゲームをすることでルールができる。値打ちに応じて売買するのではなく、売買に応じて値打ちが定まる。と。

それなのに、大半の哲学者や経済学者は、内輪の生活だけをみていて、言葉が通じゲームができ売買が成立することを自明のこととして疑わない。柄谷はこれが我慢ならないのだろう。

とはいうものの、現実の生活が実際には概してスムーズであることを忘れるのもおかしい。現実生活の自明性の破壊力。いや、その自明性こそがきわめて謎なのだという問題を見出し、その謎を解明したいがゆえに、言葉やゲームや売買の自明性を徹底的に疑おう、という動機なのだろうか。

自分で考えたり書いたりすると、そうとう間違ったことを考えたり書いたりしてしまうので、まずは、読もう。

なお、私は20年前に出会ったが、この論考自体は1985年『群像』誌上でスタートしている。小林秀雄に始まる「批評」という行為や領域は、文芸評論に寄生しつつ研ぎ澄まされてきたとされるが、この頃からは文芸をもはや置き去りにし、彼方へと飛び去っていく。そんな印象がある。

ちなみに、柄谷行人『探究1』をまた読もうと思ったのは、『ゲンロン』(下記)で続けられている「 現代日本の批評」を読んだから。そこでは、柄谷行人という「暴風雨」が通り過ぎた批評の、いわば被災地で、やや悔しげに寂しげに瓦礫を拾っている。

https://www.amazon.co.jp/dp/4907188129

いやむしろ正反対に、たとえばウィトゲンシュタインなどは「会話や議論が自明だ、スムーズだ」なんていう実感とはほど遠いところで日々を送っていたのだろう。それが彼の哲学の一番の動機だったのかもしれない。柄谷行人はどうなのだろうか?


(2019年11月追記)
ウィトゲンシュタインが「言語のルールはいかようにも変更可能である」と考えていたという前提で上記を記したが、その前提は間違いかもしれない。そう解釈したクリプキが間違っていたように言われる。そもそもウィトゲンシュタインは人間の生活や言語が不条理だなんてまったく考えなかった可能性がある。