東京永久観光

【2019 輪廻転生】

原発について考えたことのまとめ


【5月30日/友人とのやりとり】

原発問題というより人間問題、世間問題のほうでこそ考え抜き、悩み抜くよね、実際。日本人的なのだろうか?


【5月30日/同】

原発問題より人間問題のほうが主」などと思ったのは、私の感覚がマヒしていて原発問題の重大さがわからくなっているのかも、と反省。人間問題は私の一生の課題だが、原発問題はその私の一生を超える課題ともいえるかな。

そのうえで、ありきたりな問いなんだけれど、真面目に問いたい。

「車にはねられて死んだ」り、「会社をやめさせられて病院に行けなくて死んだ」り、あるいは逆に、「人をはねて殺すリスクがゼロではないと知りつつ車を運転」したり、「その人が貧乏で病院に行けなくなって死ぬリスクがゼロではないと知りつつその人を会社からやめさせたり」、ということを、われわれは一般にしていると思う。一方で、「原発の事故によって自分や家族の命があやうくなったり」「原発の事故でだれかの命があやうくなるリスクがゼロではないと知りつつ、完全な安全対策まではしていなかったり」ということが今回は起こっている。

原発の問題が、交通事故や貧乏や病気の問題とは違う(と感じるのは)、なぜなんだろうね。

健康や命をそこなう規模が特別に大きいからだろうか? 原子力が人間には制御できないものであるからだろうか?

これは質問しているというより、自分に問うていること。ただもし何か考えがあれば、別のところでもよいので、聞かせてほしいと思う。


【6月1日・同】

(「土地という観点」「子どもという観点」の指摘をうけて) なるほど。自分たちの土地という意識。そしてそれが失われる感覚。これは東京のコンクリートしかない町で永久の仮住まいみたいに生息していると、つい忘れがちなことだね。まさに地に足をつけて生きているのかどうかが問われている気がしてきた。

NHK教育の例のドキュメンタリーも、結局そこ(自分たちの土地が汚染され住めなくなることの非常な悔しさ)がひとつの焦点だったように思う。


【6月5日/twitter

ドイツ原発廃止が決定。フランスは原発維持。日本は原発むにゃむにゃむにゃ…。遠くのドイツがきっぱりしているのに当時者の日本は情けない、という思いはもちろんあるが、それより、どうしてこのような差が出るのか、その理由や背景にこそ興味がある。

赤瀬川原平が『優柔不断術』という本を書いていて、非常に面白かった覚えがあるが、やっぱり国民性のようなものがあるのではないか。「とりあえずビール2、3本ね」と、2本でもなく3本でもなく頼むと、なんだか知らないけどうまくいく、みたいな話。asin:9784620313474

私は自慢ではないが(いや本当に自慢ではなくとことんイヤなのだが)、ものごとの決断がなかなかできない。メールの返事もすぐできない。すぐ返事できるときも、あまりにすぐ返事するのもどうかと迷ったりする。ツタヤで借りるDVDや図書館で借りる本を決めるのに1時間もかかったりする。昼飯も。

そんな優柔不断がしみついているので、そしてまたそれがむしろ奏功するケースも何割かはあるように思っているので、日本の国民が将来に対して優柔不断であっても、必ずしも間違いだとは思わない。即座の決断ができない政府を100%責める気にもならない。

それでも原発事故の対応については、やっぱりマズいのだろうな。

本当に正直なことを言うと、「私はおそらくこれから30年くらいのうちには、がんかなにかで死ぬ確率がかなり高い」ということが頭にあり、では今回の原発事故はその残り年数がかなり塗り替えられるほどの事態かというと、いまだにそうは思えないので、なんだかぼんやり生活している。

メタボの害、ストレスの害、睡眠不足の害、タバコの害。そういったことを本当はもっと心配したほうがよいのではなかろうか。

原発事故が起こる前もそうだったのだが、原発事故が起こり、それが及ぼす私の人生への悪影響の大きさ(そう大きなものでもなさそうなこと)が少しずつ推測されてくるにつれ、先にあげた様々な害(メタボ、睡眠不足、タバコ)が及ぼす私の人生への悪影響の大きさ(そう小さいものではないこと)のほうが、むしろ身にしみてくる。

ただ、原発事故の悪影響はどの程度であるのか、今なお予測がつきにくい、ということは確実に言える。

しかしながら、もうひとつ確実なのは、原発によって私の人生が損なわれる確率なんて、3月11日以前はゼロに等しかったのに、3月11日以降は少なくともゼロではなくなってしまった! ということだ。

雷に打たれたり、隕石に当たったり、テポドンに当たったり、アルカイダの報復爆弾に当たったり、ということを心配するよりは、放射能の影響を心配するほうが、今は合理的なんだろう、という気にはなってきた。

私たちの国は汚染されてしまいました、だ。

――こんなふうに考えつつ、根本的に優柔不断である自分と同時に、根本的に虚無的である自分が、浮き彫りになってくる。

しかし、虚無的であることは本当に間違いなのだろうか? たとえば無闇に建設的であることや無闇に破壊的であることに比べて。ドイツはやけに破壊的ではないか、フランスはやけに建設的ではないか、などと感じるのは間違いなのか?

私は原発が集中する福井県に生まれ長く生活していたので、この問題についてかつては当事者だった。

その頃のことを思い出した。「福井の原発が事故を起こして大変困ったことになる確率より、自分が会社を首になって大変困ったことになる確率のほうが、いくらかは大きいのではないか」ということにふと気づき、なんだかニヒルになってしまったことがある。

なお、福井の原発では亡くなった人がいる。もう忘れられているかもしれないが、美浜町原発で、たしか細管が破れて蒸気が発生し、それによる犠牲だった。そのとき私は次のことに思い至って少し愕然とした。何十年も維持されてきた原発で初めて人が亡くなったが、まことに皮肉なことに、それは放射能による犠牲ではなかった!

そうした時代は、しかし、3月11日を境に終わった。

私たちはメタボの害や交通事故の害やリストラの害とともに、放射能の害というものを、うっすらではあってもどうしても気にしながら生きていかざるをえなくなった。そんな時代が来てしまった。

――ここから話は飛んで、そして結論に突入。

虚無的に生きることが生来の性格として染みつき逃れられない私からみて、やけに建設的な人ややけに破壊的な人には、じつは心底の共感をもてない自分がいる。虚無的なのがベストだと思っているわけではない。建設的なことや破壊的なことがベターだとも思えないということだ。

しかしそのとき、ふと思う。芸術的に生きるという道があるじゃないかと。それこそが建設的でも破壊的でもない第三の道を行くことなのではないか。(しかも私からすれば、ちょっと虚無的に近いところも感じられて親近感がわく)

芸術は政治でも経済でもないのと同じく、建設でも破壊でもないのではないか。

芸術という言葉で今何を指しているのかというと、私としては、先ほど述べた赤瀬川原平さんの活動などが真っ先に挙げたいといつも思っている。それからまた、ときどき流れてくる横尾忠則さんのツイートを思い出す。それから最近なにかとお騒がせのグループChim↑Pomのことなどが頭をよぎる。

http://www.mujin-to.com/index_j.htm

建設によって、破壊によって、救われる人がいる。しかし救われない人もいる。そしてまた、芸術によって救われる人もいるのだ、たぶん。(虚無によって救われる人がいるのかどうかは、私はまだよくわからない)

そしてどうせなら、好きなことをしましょう。建設でも破壊でも芸術でも。政治が好きなら政治を。経済が好きなら経済を。アートが好きならアートを。ツイートが好きならツイートを。そして自らを救い可能なら私を救ってほしい。私も可能なら誰かを救いたい。

 *

原発が人類の愚行なら、鉄砲はどうなのだ? 電子レンジはどうなのだ? 車はどうなのだ? 電灯はどうなのだ。コンピュータはどうなのだ? 意識や知能や言語はどうなのだ? すべてそのせいじゃないのか?

いや、そういうゼロか100かの選択ではなく、常に今「どこにとりあえず線を引くか」という問いが大切なのであり、そうした問いくらいにしか我々は答を出せないということなのだろう。

たとえば火力発電はとりあえずOKだけど原子力発電はとりあえずNGとか。それはつまり、たとえば仮にだけど、リビア空爆はOKだけどアフガンとイラク空爆はNGだったのだとか。


【6月6日/twitter

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』を読んでいる。予想外に面白い。いわば正統派の文学好きを、活気づけ、勇気づける一冊だと思われる。asin:4309245293

ここには興味深い対立軸が明らかに浮上する。すなわち「この世は文学なのか情報なのか」。この世を正しく確かにとらえる技法は文学なのか、それとも情報なのか、だ。

これは、たまたまだが、原発放射能というものをどう捉えるかの対立軸にも相当するように思われて、いっそう興味深い。

たとえば「現代の文明はどうあるべきか」という答を、私は私のセンスの中で明確にしたいと願うのだが、それほど複雑で膨大な課題をこれほど単純で卑小な個人に解けるわけがない、と思うこともまたひとつの常識ではないだろうか。

では、たとえば文明のあるべき姿、あるいは原発放射能の正体とでもいったものを、私たちが、私たちのセンスを超えて、まだしも正しく確かに捉えるにはどうしたらいいのか。

そのときの答は二つ。一つは「文明を、原発を、文学的に見なさい」という答。もう一つは「文明を、原発を、情報的に見なさい」という答。

…と大風呂敷を広げたところで、よくわからなくなってきた。


【6月7日/上記をめぐるtwitter @ 上でのやりとりから】

佐々木中という書き手の出現について批評系の人々が喝采しているのを、東浩紀さんは苦々しく見ているようで、それがなんだか興味深く、読んでみたところ、「文学か情報か」という両極のイメージは明らかに浮上してきます。

「文学」は佐々木さんの代名詞、「情報」は東さんの代名詞、という図式にもなると思います。そしてまた、この図式は原発論争にも少し当てはまるのでは? と思った次第です。

たとえばまさに「核のゴミを今後何千年も,天変地異もなくテロもなく謀略の道具にも使われず,あらゆる意味で安全に管理していく」という課題。これ対し、私たちは「科学技術の限界を知り、文明の在り方全体を考えるべきだ」といった態度が、一般には「良し」とされます。

ところが天の邪鬼なことに、「いや本当は私たちは今こそ科学技術のみを頼りにすべきなのではないか」という見方も浮かんできました。

「文学か情報か」は「直観か計算か」と似ていると思います。人間かコンピュータかという問いかもしれません。

私たちは今、納得できる答を探すためにグーグルで検索したりアマゾンのお薦めを参考にしたりします。きわめて膨大で複雑なデータを扱う問いに、人間の頭だけで正答に達するのには限界があるように感じています。

そうすると、原発やエネルギーの将来といった大きな問題に対しても、文学とか直観とか英知といった漠然としたものはむしろ除外し、過去から蓄積された情報のみを正確に処理することで正答を見出すべし、といった態度に至るかもしれません。

ここまで考えたところで、佐々木中の著書にある「文学」と、だんだんずれてきてしまい、話も大きくなってしまったので、いったん停止した次第です。

「文学」そして「情報」。これは両方とも、長い歴史の成果として人間だけが持ち得た知恵であり、そのこと自体が素晴らしくまた誇らしいと私は感じます。私たちにはそのどちらも欠かせないのだと思います。

問題は、時としてどちらかが過剰に信じられ、どちらかが不当に蔑まれていることではないでしょうか。そして今、原発論争において、どちらが過剰に信じられているか、どちらが不当に蔑まれているか、ということが気になるしだいです。


【6月11日/twitter

関西電力までが夏の電力不足を心配していて、なぜかと思えば、私の郷里福井県では、原発の安全基準をちゃんと見直さないかぎり、定期点検などで停止中の原発を動かさないでもらいたい、といった要求をしているようなのだった。

http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/earthquake/28596.html?utm_source=twitter&utm_medium=rss

安全がほしい気持ちだけでなく、かまってほしい気持ち、金もほしい気持ちなど、混じっているように感じるが、いずれも本音だろう。

私にとって郷里である福井で原発事故が起こることは、郷里ではない土地で原発事故が起こることとはまったく意味が異なり、他人事ではない。

しかし、それを踏まえた上でも、私が今いくらかは本気で恐いと思わないでもないのは、やっぱり、首都圏を襲うかもしれない大地震のほうだ。

そしてまた、それを踏まえた上で、同じようなことを何度も言うけれど、もっと不安なのは、この夏に向けて、電力の不足…じゃなくて、この夏に向けて個人的に異様な集積が予測される仕事のやりくりがいよいよ破綻しないかということだ!

いやもちろん、この夏までに仕事が破綻する確率はそう大きくはない。この夏までに福井の原発で大事故が起こる確率も、首都圏で大地震が起こる確率も、さほど高いものではないのと同様に。

しかし、これまた何度も書いているが、この夏までに、たとえば隕石やアルカイダの報復爆弾や北朝鮮のミサイルが首都圏に落ちてくる確率ほどには「低くない」ということが、ここでは重要なのだ。したがって冷静に考えると、そうしたいくらかは現実味をふまえた対策が、東京の地震の場合やはり皆無ではいけないのだ、ということを思う。(日本中の各地で地震が起こる確率が、東日本大震災の前とは大きく変わってしまった、という知見を踏まえるとという話だが)

 *

きょうは雨だが、午後から新宿で「原発やめろデモ」がある。

私もどちらかといえば「原発やめるな」よりは「原発やめろ」という気分にはなっている。

でも私のその気分の正体は何だろう。原発がこのままであるかぎり、私の生活や健康や生命が危うくなるということが心配、ということか? あるいはもっと広く、日本全体の私以外の他人もふくめた大勢の人たちの生活や健康や生命が全体的に危うくなることが心配もしくは不快、ということか?

あるいはもっと、村上春樹のスピーチみたいに、人類の歴史や地球に対する人間としての責任感、といったような崇高な思いだろうか(そういうものが私にはまったくないとも言えないところが、すごい)

いろいろ混じっているのだろう。

とはいうものの、ここ数年私を実際に憂鬱にさせることといえば、たいていは仕事をめぐっている。「だったら原発の心配なんかせずに、仕事の心配をもっとしなさい!」

しかし、私の長い人生をうっすらとではあるがいつも覆っている、この、仕事にまつわる種々の憂鬱は、地球や人類の歴史を覆っている原発を含めた大きなシステムとけっして無縁ではない、とも言えるのではないでしょうか。

要するに資本主義か? しかしそういうことを言い出すと、どこからか(というかはっきり山形方面からだが)冷笑がひびいてくる。http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20110609/p1 これはこれで「まったくだ」と感じる。

……というふうに、けさもまたわからなくなってくる。雨をながめるしかない。模様をながめるしかない。ともあれ、私たちは馬鹿ではあるが、それほど馬鹿ではないのだから、互いに、それほど馬鹿よばわりはしなくていいのではないか。我々は崇高なことも卑近なことも考えようと思えば考えられる。

原発推進論者も原発廃止論者も、どちらも時として馬鹿なことも言うが、どちらも馬鹿なことしか言わないわけではない。私たちは池田信夫の言うこともわかるし村上春樹が言うこともわかる。

(いやもちろん、たまには、だれかを馬鹿よばわりしないと、ストレスがたまって仕方ないや、というリアルな現実もあるけれど…)


【これ以前】

◎賛成も反対も半減期まで(とか) =3月27日=
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20110327/p1

◎ほうれん草は原子力レンジでチンせよ =4月9日=
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20110409/p1

◎本当に諦めきれないものは何ですか? =4月14日=
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20110414/p1

◎あなたは原発に賛成か反対か結論を出すのに賛成か反対か =4月17日=
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20110417/p1