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【2019 輪廻転生】

作文の本質と実存


随所で話題の『日本語作文術』。タイトルがいたってシンプルな中公新書
日本語作文術 (中公新書)

日本語の文は、人が主体であることと、述部(動詞、形容、名詞+だ などのパート)が膨らんでいるのが特徴だが、逆に、無生物を主語にし、名詞を接合する要領で文を膨らませる手法をとれば、外国語の翻訳のような文章に変わるので、両方を用途に応じて使い分けるとよい、という話が最大の収穫。(今まだ半分だが)

しかし、著者は、文章を書く目的をひとえに「達意」つまり言いたいことが伝わることに置いている。ほとんど同意しそうになるが、実際のところツイッターやブログにどういうつもりで文章をつづっているかというと、明確な伝達の内容や相手があるわけではない。

いやむしろ内容や相手は曖昧にしておくほうが目的にかなっているようでさえある。それよりも、文章をつづる目的というなら、少なくとも他人ではなくもっと自分自身に対する何かではあるだろう。(いや単純に知人を増やしたいとか、金を儲けたいとか、他人を説き伏せたいとかのツブヤキも多かろうが)

それで何が言いたいかというと。

ツイッターやブログの場合、文章を書く動機や目的が同書の想定とは大きく異なるのだから、作文術もまた異なるに違いない。そうした作文術のポイントを突いた文章読本はこの世にまだないように思われる。

とはいえ、この本は内容多彩で参考になる。慣用句やことわざなどの定型文をもっと使うべし、という主張も新鮮。そのために著者は、江戸川乱歩横溝正史を数多く読みサンプルを集めたという。その収穫が巻末にも掲げられている。面白いことに純文学は参考にならないそうだ(紋切り型を執拗に避けるせいか)

あとはやっぱり、日本語の独特のクセに気づかされるのが面白い。(他の言語にもそうしたクセはあるのだろうが、よく知らない) 

そんななかで、こんな一文が引用されている。《このうちに相違ないが、どこからはいっていいいか、勝手口がなかった》 以前別の似たような本でもこの文が紹介されていた。

これは幸田文「流れる」の冒頭だったのだ! 映画(成瀬己喜男監督)でも、田中絹代が舞台となる家を訪ねていくところがあったなあと思いだす。

そんなことが思い出されたせいもあるかもしれぬが、私は、この一見おかしな幸田文の文章を、断然支持する! というかこういう文章をもっと書け。

文章をわかりやすく書くと自分や他人がなんらかの得をするのは間違いがないが、だからといって、なぜそう汲々とする必要があろうか。私たちの生活がおかしなものであるかぎり、文章の内容や動機がおかしなものであっても当然と言える。

少なくとも、たとえばアメリカとかアイルランドとかロシアとかの複雑怪奇な小説文を愛でるのと同じくらいには、日本語のおかしな小説文をもっと愛でよう。

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ブログを先月は1回しか更新しなかった―なんてことをやっぱり書く(twitter)。しかも今ごろ書く。流行にいつも乗り遅れつつ結局は流行に乗るばかりの人生を反省せよ。