『図で考えれば文章がうまくなる』(久恒啓一) asin:4569641385
どこかのブログで初めて知ったこの本、開いてみたらいきなりこう言われた。
《ここではっきりと断言しなくてはいけません。「文章は考えるための道具としては弱い」のです》
日々のジョギングにせっせと励んでいたら「靴が脱げちゃいました」。そんな感じ。
これまで物書きの多くは、むしろ「書くことこそ考えること」というふうに説いていたと思う。私もそのように感じ、信じてきた。ところがそれは大きな錯覚だったかもしれないのだ。
《文章を書くという行為は、考えるためには適しているとはいえません。考えをうまくまとめて、よりよい内容にしようとするときに、考えるためには弱い道具を使うのは時間と労力がかかりすぎるのです》
じゃあどうすれば? 著者は、書こうとする内容をまず図に表わせと言う。
要領は簡単。思いつくキーワードをすべて紙に書き出し、似たキーワードをまとめてマルで囲み、マル同士を並び換えつつ、関係(そして、しかし、ゆえに、および、つまり等々)をはっきりさせて矢印で結ぶ、というのが基本。これに、コメントを書き込む、タイトルをつける、スタートとゴールを決める、などが加わる。こうして図が出来れば、すなわち文章の骨格と道筋が出来たことなので、あとは図をなぞるように文章に書き下せば、はいOK!
著者は実際これを教室で指導しており、学生のほとんどが文章をスラスラ書けるようになり自分でも驚くのだという。
《パズルをつなげるように単語を並べ、自分の考えを足していくと、あっという間にたくさんの文章が書けるのです。おもしろいくらいにペンが動いて文章自体がうまくなったような気がするでしょう》
一歩先には「文と図の往復運動」があるとのこと。
《図解に沿って文章を書いていると、わかっていたつもりの部分でも厳密に考えることになって、つじつまが合わないことを発見することがよくあります》
《行き詰まったら、図解のほうに問題があります。(略)この場合は、図解を修正していきましょう。こういった往復を繰り返すことによって、論理が鍛えられていきます》
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さてこれは本当だろうか。たぶん本当だろう。
漫然と書いていくというのはたしかに時間がかかる。見通しがきかないから、けっこう迷走するし枯れもするのだ。それで、忙しければ「きょうはもう寝るか」ということになり、暇な夜ならいくらでもダラダラできて「あれまた夜が明けたよ、まいったね」ということになる。
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だったら私もひとつ図解文章法を実践しようではないか。そう決意したのだが、結局まだ試さずじまい。要するに面倒なのだ。紙とペンを用意して図を描くというただそれだけのことが。
なぜ面倒なのか。パソコンに向かいエディターを開きあれこれ考えながら文字を打ち込むという日常に、そのような方法に、私はあまりにも慣れすぎてしまったのだ。(ちなみに、この手の図を描くためのソフトもあるようだが、私はほとんど使えていない。そもそも今のパソコンの入力方式自体が図を描くのには適さないのではないか。このほか、パソコンではおしゃべりなどもほとんどできない。パソコンはテキストによるコミュニケーションばかりをひたすらスムーズにした)
それともうひとつ。図解で明瞭になるのは「何を書くか」であり、それを「どう書くか」は別の作業になるわけだ。すると私の場合、図解した後にそれを書き下すという段階で、やっぱり文章の言い回しにあらん限りの時間を費やしてしまいそうに思われる。
こっちはおそらくモダリティーということに関係する。
◎ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3
◎ これも参考までに。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20030528#p1
◎ ついでにこれも。http://www.mayq.net/junky0303.html#19(日本語は分析的<記述的)
内容より文体が大事なのかというと、そうでもない。何か書きたいと思うとき、私はしばしば「事実がどうか」以上に「その事実に対して私はどんな位置にいるのか」が気になってしかたないのだ。つまり私の文章の内容とはじつは私の態度なのだ。
言い換えれば、人の目を気にするということか。事実をどう伝えるかより、私のことがどう伝わるか、どう言えば文句が出ないか、みたいなことに時間と神経をすり減らしているのかもしれない。
「〜なのだろう」「〜ではないか」「〜かもしれない」……こういう文末をいくつ使えば気がすむのか、一度数えてみようと思ったこともある。
■■■(追記8.3 コメント欄を受けて、話は飛ぶが)
動物の音声は求愛や社会交渉のコミュニケーションに役立っているようですから、ヒトの音声言語も初めはそんな程度で、論理的な思考なんてとてもできなかったんでしょうね。
そうすると不思議なことが2つあって、1つは、動物の鳴き声から高度な言語へとどうやったらそんなに大きく飛躍できるのかということです。でもまあ、泣くだけだった赤ん坊がいつしか偉そうな口をたたく大人になっている事実が誰の目にも明らかであるごとく、言語の自然的な進化も同じように否定できない事実だと信じることはできますよね。そういうわけで、身近な子供でもじっくり眺めつつ言語の起源と進化を想像するのがいいのかもしれません。
さて2つめの不思議は、言語と論理の関係はどうなっているんだということです。言語がもともとは論理的な思考とは無縁だったと考えるかぎり、論理というのは言語の外から言語の中に入り込んできた何ごとかなのだと言うしかないように思います。
じゃあ外部っていったいどこだよ、というのが大問題で、個人的には非常に興味深いのですが、なんとも分かりません。ただし、この問いは「数とはいったいどこにあるんだ」という問いと一致するのではないかなどと思ったりします。ちなみに、「言語にとって意味とはどこにあると言うべきか」とか、「意識とは脳の内部にあるのか外部にあるのか」とかは、これに近いようでやや遠い問いだとも思っています。
それと今回納得したことですが。論理をいくらか具体的に「思考の骨格や道筋」と捉えると、論理とは文にも宿るし図にも宿るのでしょう。ただ論理は文にするより図にしたほうが操作しやすいよと、著者は強く主張し、なるほどそれはそうかもと私も気がついたわけでした。
しかしだからといって、図というものには論理が最初から含まれているのかというと、そうではないと思います。図の論理性もやっぱり図の外からやってきたのでしょう。私たちの言語が論理を引き込むことができるほど高度になったのと同じく、私たちの図解も論理を引き込むことができるほど高度になった、ということなのではないでしょうか。
そして最後に。では言語はなんのために進化したのかということですが。
まず一般に言われるように、初期のヒトにとって言語によるコミュニケーション能力が備わったことは、生存を十分有利にしたように思います。
しかし、「言語はなんのために進化したのか」という問いには、言語が現在もつほどの論理的な操作性を備えることで、いったい我々にどんな得があったのかという疑問も含まれるでしょう。これに限っては、人間の言語が論理的になったからといって人間の生存はたいして有利になっていない、と考えることもできるしょう。それどころか、言語はコミュニケーションとしては適応的だったけれど、言語が論理を備え高度な思考や高度な論争を可能にしたことは、けっきょくヒトを栄えさせるのか滅ぼすことになるのか、わかったもんじゃないという主張もあるようなのです。