『認知言語学』(大堀寿夫)と『言語哲学』(ライカン)というなかなか重い本も2冊持ってきていて、だいたい読んでしまった。
言語というのはとにかく不思議だとずっと思っている。人によっては昆虫や天体をいつまで眺めても飽きなかったり秘密をぜひとも知りたいと思ったりするのと同じだろう。
認知言語学と言語哲学は学問分野としてはまったく異なる。両書はそれぞれの入門書。ともにざっと目を通したことがあって有益に感じられたしネットでも評判がよいので、この際きちんとまとめて読んでみようと思った次第。
言語とは何か。それが認知言語学と言語哲学の二つで覆いつくせるのかというと、そううまい話ではないだろう。日本とは何かを知るために東京と京都の観光で間に合わせるほどまでもいけるかどうか分からない。でも少なくとも横浜と名古屋を見たくらいの主要度はあるのではないか。まさか甲府と福井しか行かなかったというようなことにはならないだろう。言語という国にもどこかに首都があるだろうか。そこにもバカ知事がいたりするのだろうか。
「言語とは何か」という問いが結局いつまでもつかみどこがないのは、言語が神秘だからかというと、そうとばかりもいえない。「言語とは何か」というときふつう言語を現象として捉えているから、いろんな次元がごっちゃになって何をどう考えていいかが分からないということがあるように思う。たとえば「呼吸とは何か」と問われても、現象としては化学的な次元、生物的な次元、文学的な次元といろいろあって、それぞれいろいろなことが言えるし、逆にどう言っても言い尽くせたように感じないのと同じことだろう。でも「人は呼吸するとき何を吸い何を吐きますか」とか「酸素の化学式は何ですか」といった問なら答えようがある。言語も同じで「この文章は何語ですか」とか「この漢字は何画ですか」なら答えようがあるのだ。もちろん、答えようがあるからといってこのように瑣末な問いであってはしかたない。しかし、本質的な問いだからといって必ずしも答えにくいとはかぎらないだろう。
言語の謎をつきとめることは、言語をどのような角度で問うかにつきるのかもしれない。そして、認知言語学あるいは言語哲学の問いは、それぞれにいい線いっているように思う。
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認知言語学は、言語にこそ人間の認知の特性が現れるという見方をしている。だから言語にどのようなクセがあるかを知れば、人間のもののみかたのクセが分かるだろうというわけ。その前提には、そもそも言語というのは世界をそのまま写しとっているのではないというのがある。こうした観点を基礎に据えているところが、まずとても共感できる気がするのだ。
言語に人間の認知が透けてみえることの代表例のようにして同書が出してくるのは、たとえば私たちはものごとを捉えるときに必ず図と地に区分けするといったこと。あるいは、ものごとを抽象化するとかカテゴライズするとかいったこと。あるいは、ものごとを因果の連鎖として眺めるといったこと。そういう認知のクセが言語のクセとしてほらこんなふうに現れていますよ、というわけだ。
ただこの本を読み進むにつれて、そのような言語に透けてみえる人間の認知を考察するというのから、だんだん、それってただ言語自体を考察しているだけなのでは、という方向にシフトしていくようで、ちょっと興味がそがれてくるようでもあった。
それから、実をいうと私個人が本当に興味があるとしたら、上にあげたような人間が「どのように」世界を見ているのかには留まらず、いってみれば、人間がそのように世界を見ているのが「なぜなのか」という点にある。つまり、私たちがこの世界を図と地にわけて捉えるのはなぜなんだろう、因果という見方をするのはなぜなんだろうということ。(いや、こんな問いこそ、すぐに答えられるわけもなく、またこの「なぜ」という問いが何を問うているのかが実はよく分からない、ともいえるのだが)
ともあれ、認知言語学は、その「なぜ」にどんどん踏み込んでいくような分野の類の学問ではないのかもしれない。
同書は、人間は経験する世界を、名詞によって「物体/指示」として、動詞によって「行為/叙述」として捉える、といったことも説明していて、きわめて興味深い。そして、それが「なぜか」ということになると、知覚において「不変の対象」と「変化の過程」との対立があることにその基礎があるのでは、といった考えも紹介するが、そのあたりで一応おしまいだ。
なお、認知言語学の重要な領域にメタファーというのがある。これがまた面白いが、とりあえずきょうはここまで。
どうも思ったより長くなる(この話、まだかなり続く)。
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『ダンスダンスダンス』はとうに読み終えた。そのあと大江健三郎『憂い顔の童子』を読みすすめており、途中一休みして『ダヴィンチコード』(文庫本3巻)も一気に読んだ。それらについてもあたいずれ。
まだ日本に帰ったわけではない。おととい8日にスコータイというまたもや世界遺産の町に移動してきた。きのう9日は観光もした。なんでこんなところでこんなものを読んだり書いたりしているのか、おかしなものだと思いつつ。
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(追加)
『認知言語学』では「メタファー」という章が設定されている。メタファーもまた言語に現れる人間の認知のクセとして位置づけられるということになるだろう。
何かが理解できるというのは、その何かをべつの何かに置き換えられるということであり、さらにいうと、べつの何かに喩えるということなのではないか。そんなことをずっと思っているのは私だけではないだろう。実際の経験として、何かが分かったとき、あるいは誰かに何かを分かってもらいたいとき、それを何かに喩えているというのは、私はきわめて頻繁だと思う。そのとき「それは喩えただけではないか」という叱責の声が自分からも他人からも聞こえてきそうに感じられる。しかし逆に、喩えることをまったくしないで新しいことが理解できるようなことが、本当にあるのだろうか、あったら教えてほしい、と思ったりもする。
そんなぐあいで、メタファーを含めた比喩やアナロジーということについては、以前から関心と親しみがあった。そして、この認知言語学という分野がそのメタファーを扱う分野でもあるというのを、あとから知った。
認知言語学の「開祖」みたいな位置づけのレイコフという学者がいて、そのレイコフがメタファーについて非常に大胆なことを述べているのだ。それを私は『ロボットのこころ』(月本洋)という本で知り、なんというか、拍手喝采したくなった。
以下は今思い出しただけの話で、引用ではまったくない。
「抽象的な概念を我々はすべてメタファーとしてしかイメージできない」
これだけでも驚くべき指摘だと思う。さらに輪をかけて。
「メタファーの喩えは、すべて最終的には、人間の身体的なイメージの喩えに行き着く」
身体的なイメージというのは、上とか下とか、前とか後ろとか、重いとか軽いとか、そういうことだ。
さらに面白い話がある。
論理というのはベン図にするとうまく理解できる。たとえば「良い薬は苦い。この薬は苦い。ゆえにこの薬は良い薬である」が誤った推論であることや、「良い薬は苦い。この薬は苦くない。ゆえにこの薬は良い薬ではない」が正しい推論であることは、言葉だけだと分かりにくいことがあるが、ベン図を描くと一目瞭然になる。このことをめぐって、「人間は袋状の身体をしており、じつはその袋状になった身体のメタファーとして、このような論理というものが成立している」(これもまったく正確な引用ではない)というふうに、レイコフは考えているらしい。
これは10年に一回あるかないかくらいの、衝撃の指摘だと思うが、どうだろう?
『認知言語学』もレイコフのメタファー論には当然触れている。数学の基礎概念すら身体的経験によって獲得されるという議論もある、とも述べている。そのほか、《メタファーは対象とする概念領域に新しいモデルを提供するので、「科学的」活動における新発見や理論の形成にも関わりをもつ》というクーンの見解も紹介している。
これについて私は、むしろ逆に、科学的な考察のメタファーが人文的な考察の突破口として有効じゃないかということを、しばしば思う。社会や文化の考察において従来にない理論が導かれることがあるとしたら、それはたとえば量子力学とか複雑系といった発想やイメージからかもしれないということ。
ちなみに、それの行き過ぎを非難してソーカル騒動というのが起こったわけだ。しかしまあ基本的には、喩えるもの(自然科学)の理解が正しくないよりは正しいほうがいいとしても、その理解が正しいかどうかは実は本質的ではなく、あくまで喩えられるもの(人文科学)の考察自体が独創的であるかどうかが大事なのだ、と私は思う。もちろん、喩えられたほうの考察自体も非常につまらないものだったら、どうしようもないのだけれど。
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