東京永久観光

【2019 輪廻転生】

払ってますか?(近ごろの挨拶)


連休…といっても今に始まったことではないのだが、天気が最高だった土曜日は下北沢までコーヒー豆を買いがてら散歩。いつもより人出の多い駅前でヘンなものに出会った。一人の男性が「なんで屋」という手製の看板を出し、道行く人を捕まえてはあれこれ講釈しているのだ。脇に置いた板には、お題を書いた紙がいくつも貼られている。「財政赤字が700兆円にも膨らんだのはなんで?」「マスコミが第一の権力になったのはなんで?」「やりたい仕事が見つからないのはなんで?」などなど。それを今ここでこの人が解説してあげようというわけ。急いで手書きしたらしき「自己責任って何?」もあった。一回300円+満足代とのこと。しばらく前、渋谷に「聞き屋」というのが出没するという話をテレビで見たが、「なんで屋」は初めて。

それにしても、近ごろは「なんで?」と知りたいことがあれば迷わずウェブに頼る。そのウェブの総力に勝るような内容を一個人が語れるかというと、なかなか難しいのではないか。ひるがえって思うのは、ウェブの巡回先で的確絶妙な答を得られた時には100円玉の2、3枚くらい提供したっていいのではないかということ。とはいうものの、逆にふだんウェブの書き言葉にあまりに没入しているせいで、こうした生身の人間の生の語りというものが、なかなか新鮮に響いてきたのはたしかだ。暇つぶしの方法としても、モニターの文字にのめり込むのとは違った開放感がある。下北、やっぱり面白い。

ところで、その下北沢の街中に環七なみの大きな道路を建設しよういう計画があるらしい。全然知らなかった。それに反対するビラまきも同じく駅前で行われていた。サイトあり。→http://www.setagaya.st/shimokitazawa/



話はだらだら続くだけなので注意してほしいが、さて日曜日も快晴。こんどは少し遠くの図書館に本を返しに歩いた。だれしも同じだと思うが、未読の本はいつも家に過剰なので、返却だけのつもりだったのに、帰り道を歩く間にぱらぱら読む本が欲しくなって、そのために適当に借りた文庫本が『1973年のピンボール』。かなり久しぶりだ。そしたらこの小説、こんなふうに始まっている。

見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。/一時期、十年も前のことだが、手あたり次第にまわりの人間をつかまえては生まれ故郷や育った土地の話を聞いてまわったことがある。他人の話を進んで聞くというタイプの人間が極端に不足していた時代であったらしく、誰も彼もが親切にそして熱心に語ってくれた。見ず知らずの人間が何処かで僕の噂を聞きつけ、わざわざ話にやって来たりもした。》少しおいてさらに。《理由こそわからなかったけれど、誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた。それは僕に、段ボール箱にぎっしりと詰め込まれた猿の群れを思わせた。僕はそういった猿たちを一匹ずつ箱から取り出しては丁寧にほこりを払い、尻をパンと叩いて草原に放してやった。彼らのその後の行方はわからない。きっと何処かでどんぐりでも齧りながら死滅してしまったのだろう。結局はそういう運命であったのだ。

これを読んだら、「聞き屋」が聴かされる話も、「なんで屋」が語りたがる話も、ウェブにこうして綴られる無数の話も、みな同じ猿の群れに思えてきた。小説という語りも結局は同じようなことかもしれない。それでも、この「僕」のように、見知らぬ人の話をただ聞くというのがそれほどつまらないわけでもないぞと、思い直してもみることも大事だろう。

いやいや、もちろん『1973年のピンボール』自体は、そんなふうに思い直す必要はまったくない。先へ先へとひとりでに読み進んでしまう。何の話をしている小説なのかがどうもよく分からないのに、不思議なことだ。そこは、お題がはっきりあってそれについて述べる「なんで屋」とは違う。いや待てよ、お題はある。なにしろ《これはピンボールについての小説である》。でもこう言われて、小説のお題っていったい何のことだろうと、よけい分からなくなる。村上春樹のこの頃の小説は、語りたい何かがはっきりあって、しかしそれは絶対語らない、そんなおかしな態度に感じられる。その力学や是非はもうとうに分析されたのかもしれないし、まだされていないのかもしれない。ただ今回もまたそういうことは気にせず最後まで行ってしまいそうだ。

ついでにもう一言。「夜になって寒くなり、空から白いものが落ちてきた」。こういうのを提喩という。「雪」という特定のものを示すために、わざわざ「白いもの」とそれを含んだ集合全体で語る。でも読むほうはちゃんと「雪」だと分からなけらばならない。さて、村上春樹の小説が全般に提喩みたいなものなのではないかと、今回ふと思った。どこを切ってもこんな表現。《確かに彼女は彼女なりの小さな世界で、ある種の完璧さを打ち立てようと努力しているように見受けられた。そしてそういった努力が並大抵のものではないことも鼠は承知していた。》この「小さな世界」「ある種の完璧さ」「並大抵のものではない努力」などは、特定の行為や心情として語られることはない。でも読者は分からねばならないようだし、少なくとも実際分かったつもりになれる。