結論をまず示す―― 私たちの共同体は地域よりもネットにあり、私たちの物語は言説よりも情報にあるのかもしれない。たとえば、菅改造内閣は「日本の話ですか、メディアの話ですか」と問うてみるべきだ。判断に迷ったとき、「識者のコメントに頼りますか、2ちゃんねるのまとめサイトに頼りますか」と問うてみるべきだ。
つまり「伊達直人はどこで生まれ、どこに生きているのか」と問うべきなのだ。
以下は結論に至る前の思案いろいろ(未整理・微修正)
人の一生というのは、赤ん坊だった体や心に、体験や思考がどんどん組み上がっていくわけだが、そうした体験や思考はやがて解体され風化される方向へと転じる。それが老いとういうものだろう。
しかし、ひょっとすると、中年くらいの段階で、体験も思考も、定常波のように、いったりきたりの繰り返しにすぎなくなるのかもしれない。――日々のツイート、日々のはてなブックマーク、日々のニュース、のごとく。
これは結局、個人には自分の一生分の情報処理ですら限界があるということなのだ。
そのかわり、21世紀ネット時代には、新しい「事件」は、コンピュータの情報処理の次元においてこそ起こる、ということになる。寂しく哀しい話だろうか?
言い換えれば、21世紀の事件は、個人の読み書きの次元を絶対条件とする「文学」においてではなく、個人を超えた次元の「情報」においてこそ起こる。
最近話題になった「東浩紀と佐々木中の主張の違い」とは、そういうことなのではないか(読んでいないので憶測)
ただそんなことを思う一方で、「何を言ってるか、事件というなら、それはロシアやチェチェンで起こりまくっているよ!」とも思う。『ロシア 語られない戦争』(常岡浩介)などを読んでいると。
さて、問う。
「蝸牛になるくらいなら雀になるほうがマシ」
「動物化するくらいなら兵士化するほうがマシ」
「世界を情報化させるよりは文学化させたい」
―あなたはやはりそう望みますか?
これらとどう関連するかははっきりしないが、マイケル・サンデル(白熱教室)は、私たちは共同体の物語ぬきに生きることはできない、といった主旨のことを指摘する。それはまったくそのとおりだとも思う。(それを自覚することを少なくとも私はなんとなくずっと避けてきたとも思う)
ただし、現在の私たちにとって、「ネット化された共同体」や「情報化された物語」のほうが、現実の共同体以上に切実である可能性は高い。そのことについて、日々の新聞や毎月の文芸誌はあまりタッチしていないのが現状であるとしても。
補足:たとえば、小説は縦書き「でなければならない」と、なんとなく、または、かたくなに、思ってしまうところに、「佐々木中」的な文学実在観は依って立つのではないか。