東京永久観光

【2019 輪廻転生】

過去は何度でも繰り返せるけれど…



旧盆に大学の同級生と会ったのがきっかけで、そのころの日記帳を引っぱり出した。いつかやろうと思っていたパソコンに書き写す作業を始めた。

大学時代が数年前だった人でもずいぶん懐かしがることだろうが、私の場合は数十年前なのであり、これはもう途方もないことだ。

さて自分の日記を読んで まずもっての感想は「ヘンなやつがいる」。あまりの未熟さや無知に加え、ささいなことにいちいち喜んだり嘆いたり。まあ、田舎の高校から18歳の独り身で大東京に出て、まったく新しい生活がスタートしたのだから仕方ない。将来への期待と不安は胸いっぱい空いっぱい、いきなりインフレ爆発した特異な一時期だったのだと、改めて感じる。

毎日誰と何をしたとか、何を買ったとか何を作って食べたとか、そんなことほとんど忘れているので、過去であるにもかかわらず、読んでいる先の私の行動や思考は予想することができない。だから、ちょっとした青春小説もしくは教養小説(ちっとも成長しないが)でも読んでいる気分になる。それでいて、書いてあることは本当に起こった事実なのだし、しかも主人公は様変わりしたとはいえ私に他ならない。「ああたしかにそんなことがあった!」と久しぶりにほどけていく記憶も少なくない。「懐かしむ」とはひたすら後ろ向きの行為かもしれないが、それでもこんなに奇妙で面白い行為は他にない。

われわれに生き直すということがあるなら、こうして過去の日記を読み返す時はまさにそれなのかもしれない。少なくとも毎夜その日記を記していた時の私を、今そっくりその文章をパソコンに印している私が、言語として忠実に追体験している。そういうことになるだろう。

そもそも小説を読むとは別の人生の追体験に近いのだろう。もっと言うと、日記やブログが生活の核になっている者にとって、自分の行為や思考について何か書いておくという行いは、そしてそれを読み返しさらにまた書き記すことの繰り返しこそは、生きるということの同義なのではないか。

さて、小説のレビューのように、ちょっと引用してみる。



 十人余りが二つの机を囲み、上級生を交えてすわり、明日のことなどの計画の話し合いをした。このときも僕は少し話した。委員になってよかったと思った。さてほんの少し外が暗くなるころ、二次会として学校近くの喫茶店へぞろぞろとかけこんだ。委員以外の連中は二階の大椅子でみんなそろっていたが、後からきた僕らは座れず一階へ行った。そして僕はT、M、Fと同じテーブルについた。大学からこの喫茶的まで歩いてくるときから、何人かの初対面の同級生に言葉を互いにかけはじめ、この四人机でおしぼりを手にするころには、ずいぶんと和気藹々のムードがあふれていた。どういうわけか、僕らのテーブルには地方者ばかり集まって不思議と話が通じた。僕も意識してなれなれしく話した。上にはたくさんの連中がいるが、また会えるから、きょうは少数でまとまれてよかったとおもった。
 まだ別れたくない七時ごろ、われわれ四人はその店を出た。


もう一つ。あるとき世田谷区のある民家に上がる機会があったのだが、その家を取り仕切る高齢女性にひどく侮辱された体験。これについては嫌な記憶がぼんやりとは残っていたが、今回日記を読んで初めて激しく蘇った。


 そこから始まってひどくひどく僕をけなした。「あんたのように礼儀を知らない者は見たことがない。思い上がってはいないか」等々。そのあと言ったことが特別腹立たしかった。「ここは由緒ある家だ。その辺の長屋と思ってもらっては困る。あんた、家でどんな教育を受けたんだ? ここへ来る人はみんないいとこのお坊ちゃんばかりだ。礼儀もちゃんと心得ている。いいところに生まれ幸せな家庭に育った人はみんなそうなんだ」。あげくに「うちの主人は年に二度も海外に行く。立派な人ばかりと面識がある。サラリーマンじゃない。重役だ」。…これほどの侮辱を受けたことはかつてなかった。僕は最初ただ驚くばかりだったが、その後、悔しさと憤慨が膨張してきた。(中略)
 この出来事で僕は2つのことを決意した。僕は自分の誇りを忘れずに持っていよう。悪口言われたって、自分の正しさを信じることで相手に勝るということを常に胸に秘めていよう。僕は僕なりに納得して生きているのだ! 今後も自分で納得したからには自信を持ち行動していこう。誇りを持って。
 僕は正しさを常に求めよう。立派な背広を着た者と汚れたジーパンをはいた者とに何の差があろう。僕は学歴社会をあくまで否定してやる。家柄だとかいう最も不合理な差別をどこまでも軽蔑してやる。無意味な常識である礼儀だって排斥されるべきなんだ。そんなことでは世を渡れない? 今日から変えればいいだろう。汚い大人達の嘘だらけの世界を知らない若者が変えるのだ。僕たちは学歴社会、家柄、形式の不合理さを、純粋に馬鹿馬鹿しいと見つめることができる。僕たちは馬鹿馬鹿しいものはすべて捨てていこう。


…ジュリアン・ソレルかお前は! ここを読んでいて思わず自分にそう言いたくなった。


それにしても。そのとき私がこっちではなくそっちを選択していたら、その後の私は今とは大きく違っていただろう、という場面にいくどか出会う。しかし、そのときの私にはどうしたってこっちを選んでしまうだけのわけがあったのだ。それにもっと決定的なことは、結局のところ私はこっちを選択したのであり、人生はただひとつの時間の流れとただひとつの選択だけを生きることしかできないということだ。

たしかに過去は何度でも味わうことができる。でも、その過去はやはり一つしか存在していない。