東京永久観光

【2019 輪廻転生】

正義は閉架にあった

●区の図書館では中央館に一冊置いてあるくらいで、しかもそう古くないのに閉架に押しやられ、やはり借り手が少ないのかリクエストすればすぐ出てくる。そういう本は実は無数にある。『現代倫理学の冒険』(川本隆史)もそうだった。ぱらぱらと読んでみる。予想どおり堅苦しい。一般教養の授業を大教室で受けている気分だ。しかし、とても丁寧で系統立った概論だった(基礎編である前半部を主に読んだ)。●この社会で産み出される財貨などは、どう分配されたときに「正義」が実現されていると言えるのか。その基本になる考え方を総ざらえしている。たとえば、単純で乱暴ながら捨てきれない功利主義(最大多数の最大幸福)。それに対して公正や平等を軸にしたロールズの新しいリベラリズム。逆にそうした福祉国家的なものをことごとく退けるノージックの自由放任主義(リバタニアニズム)。あるいは共同体の伝統的な規範をもっと重んじようとする立場。そして、これらのエッセンスを熟慮して《現代正義論を着実に前進させている人物》としてアマルティア・センという人の理論が最後にプッシュされる。●これについて長いレポートをここに書いて皆様に分配しても、だれも幸福にはならないだろうから、やめよう。それより、最後のまとめに出てきたたとえ話を、はしょって紹介したい。1本の笛がある。これをA、B、C3人の誰に与えるのが正しいか。(1)笛を吹くのが上手でみんなを喜ばせるAに。(2)いちばん貧しくて笛をまだ持っていないBに。(3)そこにころがっていた竹でその笛を自力で作ったCに。などなど。

●さてこの本を読んでいて、ふと深刻な困難に気づいた。●こうした正義や倫理の原理は、誰しもあるていど発想したことがあるだろうし、それが念入りに検討され整理されているので、まずは納得するし感心もする。しかもそれは空理空論ではなく、当てはめるべき実際の社会あるいは実際の課題というものが、我々の前にはちゃんと存在している。たとえば今なら、年金や消費税はこの先どうしたらいいのか。日本道路公団総裁藤井治芳の退職金は高いのか安いのか(というか、もらうつもりなのか)。というか私の給料だって社会正義という観点からいくとどうなんだ? などなど。イラクをなぜどう支援すべきか、なんてことを考える基盤にもなっているはずだ。●もちろん、その解答が容易に出ないことは重々知っている。なぜ容易でないのか。ひとつには、解答を出すまでに考慮すべき要素や論点があまりに多く複雑すぎるということがあるだろう。笛1本の分配すらややこしいのに、年金や消費税、給料のありかたとなれば、ますます正答は難しい。とはいえ、これを乗り超えるのは不可能ではない。十分考えたうえでとりあえず結論を出せばいいだけの話だ。●それよりいっそう厄介なことがある。それは、こうした課題にこうした原理を当てはめて真面目にコツコツなんとか解答や結論が引き出せたとしても、それを適用させ実現させる手だてや仕組みのほうが、ますます複雑すぎる、遠すぎると感じられることだ。自らたどりいた社会正義を自ら流布させ実現させようとしたら、総理大臣かニュースキャスターにでもなるしかないのではないか。いや彼らでもできないことのほうがはるかに多い。なんというか、1億2千万人というスケールの社会とは、正義の理論が複雑になるだけでなく、それのストレートな実践が実質的にできない社会なのかもしれない。この社会についての理解ならどこまでも進むが、この社会への介入となると個人ではどうにも歯が立たないのだ。

●そんな状況の社会にあって、個人ウェブにおける言論は、さまざまな課題について日々思案を重ね、さまざまに鋭敏な解答を捻出しながらも、いきおい評論家としてニヒルに冷笑するような態度が目立つ。インターネットによって発言の機会は圧倒的に広がったのに、発言が実現する機会はほとんど広がっていない(ように見える)。そんなポジティブなようなネガティブなような社会系ブロガーとはいったい何者なのだろう。その倫理や正義をどうやって測ればいいのだろう。これは社会学が案外まだ触れていない部分ではあるまいか。あるいは社会学の範疇ではないのか。

●ところで『現代倫理学の冒険』は、私の所にある掲示板で紹介されていたのがきかっけで手にした次第。そのなかで私は、社会学や生物学は理論を当てはめる社会や生物が実際に存在するが、哲学となると当てはめるべき対象はけっきょく哲学それ自体になってしまうのか、などと思った。が、上述のことをいろいろ考え含めると、社会学や経済学というのも、実際の社会や経済からはある程度離れて独立した営みなのかもしれない、という気もしてきた。