東京永久観光

【2019 輪廻転生】

余裕のろうそく

100万人のキャンドルナイト。予想される反感。「こっちは毎日いやでも節約してるんだ。ふだん電力使用のデカそうな連中(半妄想)がきれいごと言うんじゃない!」「みんながそろって楽しそうなことは、私はかえって楽しくないんですよ」「節電、脱電、どっち? 反原発はどうした?」「電気はかまわずじゃんじゃん使おうぜ。そうすりゃ間違いなく停電して、いやでも闇の素晴らしさが実感できるって」●どこか人間の盾を思い出さなくもない。「イラク空爆反対!」(なんで?)「爆弾が頭上に落ちてくる身になったら、黙っているわけにはいかないでしょ」(じゃキミはイラク人の身になれるのか)「うぐぐ…」(だから関係ないんだよ、イラク戦争とキミの日常は。実感してないのに、さも実感してるように言うのはヘンじゃないか)「ようしわかった、だったらボクはイラクに行こう。戦争に堂々と反対するには、戦争の恐怖を体験するしかない」

●「100万人のキャンドルナイト」は、エネルギー消費大国日本の首都で実演される、ほんのちょっと真面目だがかなりふざけたRPGだ。だから、ほんのちょっと真面目にかなりふざけて参加してもいい。●でもそれだったら「1000万人の東京大停電ナイト」はどうだろう。そっちに参加するほうが刺激はケタ違いに大きいはずだ。…いや大停電はゲームじゃなく現実か…。でも、どうなんだろう、今の私は「東京大停電」を本気で恐れているだろうか? ●「100万人のキャンドルナイト」をつい茶化したくなる気持ちは、「東京大停電」を茶化したくなる気持ちに通じているのだ。それだけではない。「イラク戦争」「原発事故」「SARS」「関東大地震」「北朝鮮からミサイル」「有事」「有事立法」どれもこれも、私にはどうやら同じ程度の実感しかない。そう電気代のほうが切実…。まったくどういうことだ。●しかし、以下のような反論も可能だろう。「100万人のキャンドルナイト」ゲームの迫真性によって、「東京大停電」ゲームの迫真性に至ることができる。それと同じく、「100万人のキャンドルナイト」の現実としての迫真性(なるほどこういう人やああいう団体がこうしてああして自分もそうすることでこのようなイベントは生成するのか、という迫真性)を感じとることができたなら、東京大停電やイラク戦争の現実としての迫真性をも感じとることができるかもしれない。●しかし、こういう議論こそ、いや、あらゆる議論が、すなわちRPGか。

●斜に構えたごまめが繰り言を3日連続。