東京永久観光

【2019 輪廻転生】

おたがい山師

批評的世界』杉田さんの日記(2003・5・12)森達也さんが朝日新聞に書いたというコラム「タマちゃんを食べる会」を紹介し、森さんが思い惑いながらも、ともあれ一歩深く、さらにもう一歩だけ先へと、ゆっくり踏み込んでいったその小道を丁寧に辿り直したうえで、最後に杉田さん自身がほんの半歩だけ疑問のつま先。そこから何がみえるだろうと問う。●《タマちゃんが河辺でバーベキューにされた時、心の底から何かを感じる人、悲しみか怒りか苦痛か、それとも言葉に出来ない何事かか、そういう人々が必ずいるだろう。そういう感覚は、「身勝手さを自覚するために」「歯を喰いしばってでも」タマちゃんを食べる森氏の内側に生じる激しい矛盾と煩悶の感覚と、きっと、拮抗するに足るだけのものだと思う。その時何が生れるのか。誰よりも食べたくなかったために食べた人と、食べられたことに誰より苦痛を感じるが故に食べた人を批判できない人々、両者の間にどんな対話がひらかれるのか。》●こういうのこそ倫理学だなと思う。


●ここで少し振り返った。しばらく前に私は、「アザラシを食べる」とは書けても「タマちゃんを食べる」とまでは書きにくい、と感じた。→こちら(3月11日)。●これは人目を慮ってという理由もあるし、また、「単なるアザラシ一匹でなく、固有の名前が付いたアザラシ一匹であるからだ」という説明もされるはずだ。でもそれだけではない。杉田さんが引用部分の直前で、《動物を見ているとぼってりとやさしい気分になる》という単純な感覚が実はそう不毛なものではなく、もうちょっと普遍の倫理感を背景にしているのではないかと感じていることと、繋がる話ではないか。そんなことを勝手に思ったのだった。●もう一つ。『異議あり! 生命・環境倫理学』では、通俗的な常識(たとえば「クローン人間いかん!」)を、明晰な思考がどんどん覆していくのを読んでいくことになった。しかしながら、その通俗と相当似ているけれど完全には重ならないものとして、いわば直観(たとえば「クローン人間、どうよ?」)のようなものが別にあるんじゃないかと考えた。そして、通俗をあばくのはもういいから、もうちょっと普遍的かもしれない直観の方がどうして成立しているのか、倫理学者はそっちを考えてほしいと結論した。→それはこちら(4月25日)


●ふと、こんな書き方は、リンク先まですべて読めと要請しているようなものだと気づき、迷惑はお互い様ながら、恐縮。●リンク先にはまたリンク先がある。きりがない。そんなことをしていたら仕事にならない、夜があけてしまう、という計算はとても正しいと思う。とはいえこういう場合、否応なく先へ先へと進んでしまうのも常だ。まあそのおかげで、読んでもいない新聞コラムや買うつもりもない本や、そして知らなかった思考の、存在から内容までがなんとなく分かってしまうこともあるのだから、いったい我々の知性と教養は何処にあるというのだろう(反語ではない)。●ともあれ、リンクを辿るのは投資のようなところがあるのだ(透視?)。ときとして宝の箱も隠れている。杉田氏の日記はきょう見つけた宝石だ。


●最近ブログのトピックを追ってあちこち訪ね歩いたこと、また「はてなダイアリー」も使うようになってアクセスログが見えるようになったことから、知らなかったサイトに急にいくつも出会った。宝ザクザク。鋭い考察を連射しまくる人も多くて、もう目が回る。たとえば「OS:ディストリビューション=宗教:X」とか。


●こんなことを書き連ねながら、私はなにか主張しているようで、なにも主張していない。ここで考えあぐねているのはどういう問題でしょう、私には知能も時間もないので、だれか代わりにに考えて教えてくれませんか、とお願いしているようなものだ。しかもそれとなく素振りだけで。●そういうわけで、きょうもこんなガラクタ文章をさも宝であるかのように埋め込んでおくと、そのうち山師がどこからかやってきて、これを掘り出し「ああまた騙された」と憤慨しつつも、おかしな問いだけは持ち帰り、そうしていつかその素晴らしい解答を、どこか無数の山の中から見つけだすに違いない。さもなくば山師自らがどこかに書き込むに違いない。●でも今度は私がそれをどう見つけるのか。まあ私も少し山師になって探せばいい。インターネットは広いが、近所は狭い。慌てず騒がず適当に散歩していれば、それでもたいていのものは見つかりそうな気がする。「周知のとおり」グーグル検索も素晴らしい。グーグルが載せてくれないとしたら? だったらもうかまわないではないか。グーグルの最果ては巨大な滝になっているらしく、その先はない。


●その、誰かに探しだしてもらいたい素晴らしい解答とは、たとえばこういうものを指す。《シミンの性質の中で最も悪質なもの》=《性質6:他人の気持ちを想像して理解することが常に可能だと思っている》(岩城 保「思いやりのある人たちへ」)