テレビが「福島第一原発」と言うと「福島第一原発」が映る。「スティーブ・ジョブズ」と言うと「スティーブ・ジョブズ」が映る。通常そうなっている。
「携帯電話がつながらない」とコメントするなら「携帯電話がつながらない」という映像を入れなければならない。「車が渋滞して救急車が進まない」のコメントなら「車が渋滞して救急車が進まない」の映像を。テレビの作り手はそう考える。
律儀というか、お節介というか…
かくして、テレビでは、ある「言葉」が使われると、そこには「事実」が伴う。
われわれが言葉を使うときには、必ずしも事実は伴わない。「カレーライス」と言ったからといってカレーライスが目の前に現れるわけではない。「カレーライス」の意味はカレーライスがなくても伝わる。
人間の言語がサルの叫び声と違うのはそこなのだ、とも指摘される。たとえばベルベットモンキーというサルは「ヒョウ」や「ワシ」が現れるとそれぞれに応じた警告の叫び声を発するらしいが、それは「ヒョウ」や「ワシ」が目の前に現れたときにしか発せられない、というのだ。人間はヒョウやワシがいなくても「ヒョウ」や「ワシ」の話ができる。
テレビはやっぱり「サルでもわかる」メディアなのか。
私たちは大昔から言葉を使い続けてきたが、「意味」というものは常にどこかに隠れていた。しかしテレビが言葉を扱うようになって、言葉の「意味」は映像として見せられるようになった。これはもう、私たちにとって世界の成り立ち自体の激変だったのだ。
しかし、映像は言語がもつような強力な抽象性をもたない。さらには、言語がもつような正確なプログラム性をもたない。ただし今のところは、だ。=続く=