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【2019 輪廻転生】

★他人の顔/安部公房


 他人の顔 (新潮文庫)


じつに久しぶりに読んだ。年末年始の旅行中に。


こんな小説。《液体空気の爆発で受けた顔一面の蛭のようなケロイド瘢痕によって自分の顔を喪失してしまった男……失われた妻の愛をとりもどすために“他人の顔"をプラスチック製の仮面に仕立てて、妻を誘惑する男の自己回復のあがき……。特異な着想の中に執拗なまでに精緻な科学的記載をも交えて、“顔"というものに関わって生きている人間という存在の不安定さ、あいまいさを描く長編。》(裏表紙の紹介文)


顔にやけどを負い顔を喪失したことで、世間との関係を失い、妻との絆も損なわれてしまった男。顔は人格と、あるいは自己といかにして結びついているのか。そんな深刻で真剣でしかしやや青臭くもある思索が、ひたすら進んでいく。

変態的ともいうべき設定や発想。ためらいも臆面もなく全開になる一人きりの観念の世界。それは悲劇的かつ喜劇的にエスカレート。やがては自ら仕掛けたかのようにも見える落とし穴にはまり自縄自縛。

そんなところが安部公房 特有の魅力だ。(なんだか中二病的な感じもする)


読んだ感想として「現代の病理」とつい言いたくなるところがまた、安部公房ならではだろう。1960年代の現代を生きる男の苦しさは、2010年代の現代を生きる私の苦しさと、わりと似ているのだ。それはたとえば「戦後」という枠組みなどで一致しているのではまったくない。いわば「近代の破綻」「戦後の破綻」としての「現代」ということだろうか。実際には私たちはインターネットやスマートフォンによって空前の時代を生きている。私はそれを特に強く感じる。それでも、不思議なことに、安部公房が同時代に対して抱いていたと思われる問題意識は、現在に至っても的を外していないように思えるのだ。


さて、この小説の大部分は、語り手が自らが体験した出来事を妻に当てて書き記したノートの形をとっている。そうするとしかし、ノートに書かれた内容は、じつは語り手の自作自演あるいは自問自答の文言にすぎないのではないか。ふとそんな気がしてくる。そう感じるのは、ノートの文章とは別に、ノートを書いた後の語り手の独白がときおり挿入され、それがノートにとってメタレベルになっている構図が影響しているのだろう。しかしさらに気づかされるのは、「そもそも小説自体が安部公房という作者の自作自演・自問自答の文章にすぎないじゃないか」ということだ。そんなふうにして、「これは小説です」「作者は実在しますが、主人公は実在しません」といった大前提が、妙なぐあいに宙吊りになる。

この「書き綴られた文章に対する自作自演の疑い」を誘ってやまないところがまた、安部公房の多くの小説に共通する魅力ではないか。特に『他人の顔』では、そうした自作自演が、語り手と語り手が被っている仮面人格との議論や対決として展開される。いっそうおかしな事情になっているのだ。


少しだけ引用。

《それはぼくだって、人間相互に通路が必要であるくらいは、じゅうぶんに認めている。認めていればこそ、こうして、おまえにあてた文章を書き続けてもいるわけだ。だが、顔だけが、はたして唯一無二の通路なのだろうか。そんなことは信じられない。(中略)現におまえに求めているものも、もっと違った別のものだ。魂だとか、心だとか呼ばれる、輪郭ははっきりしないが、ずっとふくらみのある人間関係の記号だ。それでも、体臭だけで自己表現をするような、野獣の関係よりは、はるかに複雑だから、顔の表情くらいが、ちょうど手頃な伝達経路なのかもしれない。あたかも貨幣が、物々交換に比べれば、問題なく進んだ交換制度であるように。だが、その貨幣にしても、いかなる条件においても万能というわけにはいかないのだ。ある場合には小切手や電報為替が、また別の場合には宝石や貴金属が、かえって便利なことがある。
 魂や心だって、同じことで、顔でしか流通させられないと思うのは、習慣からくる一種の先入観なのではあるまいか。百年間、顔を見合わせているよりも、一編の詩、一冊の本、一枚のレコードが、はるかに深く心を交わせる路である場合は、けっして珍しいことではない。第一、顔が不可欠なものだったとしたら、盲人には、人間の資格がないことになってしまうでないか。そんなふうに、顔の習慣に、安易によりかかることで、かえって人間どうしの交流をせばめ、型にはめる結果になっているのではないかと、ぼくはむしろそれを案じているくらいなのである。現に、そのいい例が、皮膚の色に対するあの馬鹿げた偏見だ。黒だとか、白だとか、黄色だとか、たったそれだけの相違で機能を停止してしまうような、不完全な顔に、魂の通路などといった大任をまかせるのは、それこそ、魂をなおざりにする態度としか言いようのないことだ。》

もう一つ、小説終盤の「妻の手紙」から――

《あなただって、最後には、自分が仮面だと思っていたものが、じつは素顔で、素顔と思っていたものだ、じつは仮面だったのかもしれないと、疑っていらっしゃるではありませんか。そうですとも、誰だって、誘惑される者なら、そんなことくらい、ちゃんと心得た上で誘惑されているものなのです。》

上記のごとき、安部公房が小説のなかで選び取っていく思索のテーマ、そして思索のアプローチ、とりわけアプローチの大胆な飛躍ぶり横断ぶりに、私は強く共感する。そこに垣間見る安部公房の問題意識のクセのようなものに強く引き寄せられる。だから私は安部公房が好きなのだ。改めて思う。

(小説とは、さまざまな人物が設定され、さまざまな物語が展開されるなかで、けっきょく語り手や主人公の思索が進み深まっていく、その現象のことではないか)


安部公房ワープロやコンピュータなど、機械と人間とのかかわりにも興味が深かったようだが、インターネットの時代にいたら、ツイッタースマートフォン・ヘースブック(柵)などはすぐに使いこなしただろう。その上でいかなる電脳批評を小説として展開しただろうか。そんなことを想像する。

それにしても、『他人の顔』のテーマにつなげるなら、顔がなくても、いや顔がないからこそ、むしろ純粋な交流を、ツイッターは可能にしているのではないか?


ついでに、もう1つ引用。

《「虚数」という数がある。二乗すると、マイナスになってしまう。おかしな数だ。仮面というやつにも、似たところがあって、仮面に仮面を重ね合わせると、逆に何もかぶっていないのと同じことになってしまうらしいのである。》

私は虚数とかいうと異様に興奮するのだが、ずっと昔に安部公房の小説からこんなふうに刺激を受けたことが根っこにあるのかもしれない。


なお、『他人の顔』(新潮文庫)の解説は大江健三郎。こんなことを書いている。

「長編小説の作家としての安部公房は、むしろ構成への配慮をみずから拒否し、バランスを突き崩して、その作品と読者とを、不安な宙ぶらりんの状態にほうりだしてしまうことがしばしばある」

たしかに『燃えつきた地図』や『箱男』などは、終盤にわかに観念的になり、幻想と事実が混濁し、状況や場面が急激に変転し、いささか作者に置いていかれた感を味わった記憶がある。(今回『他人の顔』はそうでもなかった)

それでも私は、たとえば村上春樹はムードに流されて読んでるだけで言いたいことが実はよく把握できないことがままあるのに比べ、安部公房はムードも私の求めるものにピッタリだが、言いたいこともまた私なりに思い当たるところが必ずある。それなりに難解で複雑だが、安部公房の難解さや複雑さは私の志向に合う。


安部公房をもっと読み直そうと思っている。過去に読んだのは主に長編で、『壁』『人間そっくり』『飢餓同盟』『第四間氷期』『砂の女』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』『方舟さくら丸』『カンガルーノート』。どれも文句なく面白かった。ベスト1は『燃えつきた地図』と『箱男』が長いあいだ争っている。再読でどうなるか、楽しみだ。