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【2019 輪廻転生】

言語のゆくえ 2010 (4)


◆メディア論的に


×時起床。睡眠×時間。快晴(澄み切った空は久しぶりか)。…なんでこんなことをいちいち書くのかというと、他に書くことがないからなのだとおもう。「朝、起きて、君には言うことが何もないなら」というわけだ。

それでも、ツイッターの輪(和)に入るには、何かつぶやく言葉が必要であるから。「おはようございます」「いい天気ですね」と。

言語の役割には「伝達」と「思考」があるとよく言われる。われわれが思考と呼べべるほど複雑な生活と言語をもったのは、人類誕生からだいぶ経ってからだと思われる一方、伝達(コミュニケーション)はサル並みの段階から行っていたように考えられている。

では、その最初のころのコミュニケーションというのは、実質的な情報を知らせるためだったのか、それとも挨拶にすぎなかったのか。どっちだったのだろう。そして、人間以外の動物のコミュニケーションはどちらに近いのだろう。

ネットに飛び交う言葉が、さしたる情報を担わないコミュニケーション(いわば挨拶)ばかりになってきたと、最近指摘され、私は非常に面白いと思った。こんな変化は「人類として空前の出来事だ!」とも思った。しかし実はわれわれの祖先だって、その初めての言葉によって挨拶ばかりしていたという可能性もあるではないか。

それにしても、「世界そのものはさておき、世界に対応させて我々が実際に得ているほうの情報というか表象というかそうしたものの方が、なんだか途方もなく複雑多岐」といった状態は、やっぱり大昔の人類は知らなかったのは間違いない。

ついでにいうと、世界へのアクセスがけっこう大変なのは今も昔もそう変わらないが、世界の情報へのアクセスがこれほど瞬時になったのは、やっぱりここ5〜10年のことだ。それはやっぱりとんでもないことだろう。

では、現在の人類は過去の人類より真に複雑に考えたり感じたりしているかというと、なかなか微妙で、たとえば「経済」といった言葉を使うことで相当複雑なことができるが、たとえば「蝶」という言葉を使うことで、蝶が舞うのを実際に見る以上に複雑なことができるのかというと、ちょっと疑問だ。あるいは自分の「舞った」という体験を「舞った」という言葉で置き換えられるのかという疑問。

今のところの結論―。言語は実は世界そのものに負けないほどきわめて複雑な成り立ちと作用をしている。そのことをよく覚えておくべきだ。しかしながら、言葉の複雑さは、世界の複雑さや自分の体験の複雑さとは質が違う。そのことも忘れがちだ。


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◆言語論的に


晴れ、曇り、雨など、天気を表す言葉はいくつかあるが、日々の天気の差異や変化はきりがないから、有限の言葉では本当は足りないに決まっている。

映画の感想も「面白い」以外にもっとなんか書いたらどうだ(自戒)

「好きだ」とか「凄い」とか、あるいは「生きる」とか「死ぬ」とか、一生に1回しか使ってはいけないことにしたらどうだろう。

毎日毎日何か書いてると(ブログやツイッターに)、もう少し長い単位で、ほとんど同じフレーズがよく出てきているにちがいない。

なにかを言い表すとき、結局は言葉なのであり、要するにどんな言葉になるかが徐々に決まっていくということ(にすぎない)。ほとんどは自動化されているように思う。そしていくらかはよく考えて選ぶことになる。

空とか、鳩山とか、景気とか、児童虐待とか、そうした主語になるような名詞は、最初からほぼ決まっている。そして主語が決まると、述語もけっこう絞られる。言語そして頭のなかの、どちらかまたはどちらもが、そのように出来ているのだろう。

その主語にあまりふさわしくない動詞や形容詞を組み合わせると、それは詩のようになる。さらには、同じ事態であっても、たとえば主語をまるきり変えてしまうと、それは優れた詩になるのかもしれない。

では単語ではない言葉を使うとか、主部と述部に分解できない文章にするとか、詩なら、そんなこともできるのだろうか? たぶん不可能だろう。われわれの言葉はそのようには出来ていない。

しかし、どのような事態であっても、とりあえず言語に置き換えれば伝えることができると感じられるのは、むしろ、言葉の数やその組み立て方が無限にあるわけではないからかもしれない。それに、そもそも単語が離散的であることも不可欠なのだろう。

空の色を表すのに、絵の具なら無数の彩りが作れる。しかし言葉はそのようなやり方をしない。そういうことだ。

…とそのようにして、現実とまるきり違うものであった言葉が、現実に負けないくらい膨大で複雑な体系を成してきた。そしてこれは繰り返しになるが、私が日々何に触れているかというと、現実そのものより、現実を独自に置き換えた言語のほうがメインになっているのではないか。

朝からこんなこと(ツイッター)をしていると、特にそう思う。

では、人間以外の動物は現実そのものに触れているのだろうか。動物だって現実をそのまま受けとめているわけではないのではないか(というか、現実をそのまま受けとめるということの定義がよくわからないが)。動物もたぶん、言語ではないけれど、それをなんらかの表象に置き換えて受けとめているのだろう。


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(以上ツイッターの転載)