東京永久観光

【2019 輪廻転生】

流動する日本、過去と未来

キム・ジョンイルの拉致や圧政は許せるはずがない。毎度ひとをコケにした威嚇にも腹がたつ。それはそうだ。しかし、そうした怒りが、おなじみの「日本国」という枠組みや「日本人」という自意識を鮮明に呼び起こしてしまう。ブッシュの高圧的な支配に抵抗するにも、今ならイラク特措法について悩むにも(賛否はともかく)、つい似たような発想に立ってしまう。このところずっとそんな情勢に押されぎみだった。迷いがつのる。●たしかに、キム・ジョンイルやブッシュをやっつけようと思えば、政府首脳や国会の動きが軸になるのかもしれない。そこに「日本として」「日本のため」という発想が起こっても不自然ではない。そのときに抱いている「日本国」や「日本人」の観念も、エスノセントリズムに彩られているにせよ、まるきり無根拠だとは思わない。しかし、そのおなじみの観念だけを疑わずに固定化し強化し普遍化させていくような傾向は、とても嫌だ。●なぜか。ひとつはもちろん、国や民というものが事実として流動する存在だからだ。もうひとつは、今ある排除や対立そして戦争といった現実を回避できる数少ない方策が(ないかもしれないが)あるとしたら、それはやっぱり、国の「内」と「外」といった図式が、互いの民のあいだで、少しでも揺れて、ずれて、ぼやけていく方向にこそ見出せるだろうと、模範的にも信じているからだ。

●とはいえ、「今ある日本とはちがう日本」と抽象的に言うだけでは、説得力に欠ける。そんななか、網野善彦さんが書いた『「日本」とは何か』(講談社 日本の歴史00)は有益だった。●網野さんは、「日本」とは7世紀末に成立した国の名であると言う。《特定の時点で、特定の意味をこめて、特定の人々の定めた》起源の存在をまずはっきりさせるわけだ。そして、その日本の古代から中世までを中心にした実態を解説しつつ、はじめの領土は九州中部から東北南部までに限定されていたこと、海外や地方勢力の動きで分裂や倒壊の危機に瀕してきたこと、同じ国とはいえ社会の性質は西日本と東日本で大きく異なるのをはじめ均質でなかったこと、などを指摘し、「日本」や「日本人」という観念の永続性や自明性の幻想を解こうとする。また巻頭には、東ユーラシアの地図が南北を逆さにして掲載されている。これを見たうえで「日本は孤立した島国ではなかった」「日本海は大きな内海だった」と説かれれば、一目瞭然なるほどと思い直すことになる。●過去に目を向けることで、日本という国の流動性、多様性のイメージが大いに膨らむ。同書はそのような体験を与えてくれた。


●そうすると、未来に目を向けたイメージ作りということもありえるはずだ。佐野正人さんという研究者が書いた「日本に寄せて――またはポストコロニアルな円環をめぐって」という論文は、まさにそうした刺激を与えてくれた。●佐野さんは、2050年の2人の若者を空想することで、ありえるかもしれない日本を模索する。2050年の日本では《大阪の分離主義団体「ナニワの魂」が、東京弁を使う者たちを襲撃する事件が相次いでいる》。若者の一人は《東北人としてのアイデンティティが強い》男子学生。もう一人は女性で《コンピューター時代の到来とともに(…)世界じゅうに移住していった》インド系の二世。二人は恋人どうしだ。●この短い寓話をはさむことで、本旨である《閉じられた統一体系としての「日本」ではなく、複層的に世界へと拡散し、離散する多重的な空間としての「日本」》《世界の様々な要素や層が、多層的に交錯し、集中する求心的な空間としての「日本」》が、ひとつの具体像を結ぶ。●また、網野さんが西と東の視点で日本を分析しているのと対照的だが、佐野さんは、日本のイメージを描くのに「北」と「南」という海外にまで及ぶ視点を設定する。日本とは《「北」へと離散し、追われ、落ち延びていった記憶》と《「南」からの移住者=亡命者が文明を携えて渡ってきた遙かな記憶》の複合や円環ではないか、と。●もう一点。韓国在住の佐野さんは、そうした北と南というグローバル性をはらんだ日本の姿は、韓国から眺めると不思議によくわかると言う。そこにはきっと、あのアジアの地図を逆さに見た驚きに近いものがあるにちがいない。


●なお、網野さんと佐野さんは、実は、戦後の日本史学について、ある微妙な一点で疑いを共有している。これもまた興味深い。佐野さんの言葉としては、《教科書問題に見られる歴史的アイデンティティの追求は、きわめて反動的なものだが、それに対抗して進歩的な歴史的アイデンティティというべきものは提出されているのかは大きな疑問である》というもの。●さて、ここからは私の勝手な言い分になるが――。日本を無闇に賛美したり侵略を肯定したりするのは、まさに反動的だ。しかし、その反動を危惧し封じ込めようとするなかで、日本を考える作業が特定の過去にあるいは裁きの文脈に固定される傾向や、日本を考える作業そのものが抑制される傾向があったのではないか。進歩的と言われる側の歴史研究は、「日本という可能性」をほんとうに進歩的には考えてこなかったのではないか。それもまた反動。私は、日本の動かぬ過去、あるべきでなかった過去をつつみかくさず知りたい。それと同時に、日本の動きうる現在、ありうべき未来を、精いっぱい考えてみたい。


●さて、佐野正人さんの「日本に寄せて――またはポストコロニアルな円環をめぐって」は、『儚(das Ephemere)』というCD-ROMに収録されている。『批評的世界』の杉田さんらが発行したもの。ほかにも、ウェブ上でおなじみの人を含めたくさんの書き手のエッセンスが詰まっている。●『儚(das Ephemere)』について●佐野さんのサイト『ポストコロニアルニュース