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【2019 輪廻転生】

モダリティ

耕田さんの日記で、『もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察』という論文を知る。ざっとしか眺めていないが、この論文、実に心配りよくまとわりついてくる。ナイス。実はこれ、山形浩生氏がデカルトの『方法叙説』を英語経由で訳した文章だった。●この気持ちよさは、山形氏自身の文章がときおり感じさせる特徴かもしれない(といっても誰かを徹底攻撃するあの小気味よさとは別)。今読んでもらうこの一文の、焦点はどこなのか、ピントがぴったり合うまで、この一文の組み立てを尽くすぞ、というような文体。耕田さんの文体もそうかも。

●文に不可欠なのは主語と述語、という捉え方が一般的だ。AはBだ。でも、実際に自分がなにかを言葉にするときは、「AはBだ」ということ以上に、「AはBだ」が私とどう関係するのかということの方が、よほど不可欠だ。「AはBだ」を、何のために私は今わざわざ述べたいのか。どういう位置からどういう態度で述べるのか。こうした微妙な部分こそ分かってもらいたいのだ。●文章とは、そのためにあるのかもしれないし、そのためにいくらでも長くなるようなところがある。ウェブに日記を書いていると、それが少し分かる。誰かになにか話すときも、きっとそういう文体になっているはずだ。ウェブの日記とちがって、そっちは録音したり書き起こしたりして確認する機会がないから気づかないだけで。


●《無内容な本でありながら読者を侮っている本もあるし、内容がすばらしく高度であるが読者に対して深い気遣いを示している本もある》。内田樹氏の、またもや喝采したくなる指摘(5月26日の日記)だ。これだって、「AはBだ」はさておき、それを伝えようとする書き手の目線こそ大事、というモラルだろう。●言語を分析するときの「モダリティ」とかいうのは、こういう見方を指すのだろうか。

●「そもそもなんでこんな人がこんなテーマの文を書くことになったんだろう」といった関心もアリだと、山形氏は言うので、それも参考までに。