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【2019 輪廻転生】

★レイヤー化する世界/佐々木俊尚


 レイヤー化する世界 テクノロジーとの共犯関係が始まる (NHK出版新書)


さっくりと世界史が一覧できる、といってよい。

なにより、中世社会とはいかなる世界だったのかが初めてよくわかった。その収穫が大きい。もちろん近代国家がいかなる世界なのかもよくわかるし、本題である近代国家を超えた世界の到来の話もポイントを突いていると思う。「レイヤー化」はまだ整理された概念ではないが、迫り来る時代の核心に間違いなく触れている。こうした本も同じハイペースでするすると書き上げてしまう著者の手腕は、やっぱり素晴らしい。


世界史の授業で「領主や教会に代わって国王が人々を統治するようになりました」という話はどうもイメージしにくかった、ということを以前書いた。

 ◎http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130509/p1

その転換前の中世社会のイメージがこの本ではありありと立ち上がってくるのだ。そうすることで私たちは、近代という時代と国家という仕組みが永久普遍の土台ではないかもしれないことに、ようやく気づく。


ちなみに、その中世の終わりを象徴するのが三十年戦争。そんなわけで、Wikipediaにあった画像をしばらくデスクトップに貼っておくことにした。

 


「国家と国民の終焉」は個人的に最も興味のあるテーマの1つだ。

 ◎http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/about


この「国家や国民はオワコンかも?」ということが頭をよぎり始めたのは、もうけっこう前だ。

日本企業がコールセンター業務を中国の大連などに移し日本人を中国人に近い給与(時給260円とか)で雇う、という話を聞いてショックだった。(以下のエントリー)

 ◎http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040903/p1


なお、私は右翼か左翼かといったら左翼だと思うので、国家というものにはマイナスの評価を主にしてきた。しかし、国家が消えてなくなることが空想でもなくなった昨今、心の奥に隠して見ないようにしていたかもしれない「国家のありがたみ」のほうが、むしろ強く意識されるようになっている。

それをズバリ指摘していたのが、『ナショナリズムは悪なのか』(萱野稔人)だ。

 新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書)

この問題は多層的だ。日本国民だけを救うことが世界の人々を救わないことを意味するのと同様に、正規社員だけを救うことは非正規社員を救わないことを意味する。さらには、正規の日本国民だけを救うことは非正規の日本国民を救わないことを意味する。

 ◎http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130313/p1

あなたは安倍総理から正規の日本国民とみなされていますか?(また左翼っぽくなったか)


 *


=以下、同書で付箋したところのメモ=


<第1章 かつてヨーロッパは辺境の地だった>

十字軍が襲来したとき、あるイスラム作家はヨーロッパ人をこう評した。「勇猛果敢さと戦闘意欲においてのみすぐれている。要するに単なるけだものでしかない」

この時代の中心はイスラムであり、イスラム帝国には科学と文化の真髄が集まっていた。

《これはまるで、二十一世紀のいまのイスラムと欧米の立場をちょうど一八〇度逆転させているかのようです》

中国も同じ。中世の終わり頃には圧倒的なテクノロジーをもっていた。経済も繁栄しGDPは一九世紀始めごろまでは世界一だったと言われている。一〇世紀に成立した宋にあったもの:製紙、印刷、鉄鋼、銃、大砲、爆弾、造船、航海術、絹織物、陶磁器

古代の終わりから中世にかけて世界システムは一貫していた。

(1)帝国は多民族国家だった。

(2)帝国と帝国を結ぶゆるやかな世界の交易ネットワークがあった。

ローマ帝国はことばで、イスラム帝国は宗教でつながっていた。(*国民国家ではなかったということ)

国境もなかった。


<第2章 なぜ中世の帝国は滅んだのか>

ペスト。ヨーロッパだけの話ではない。中国、北方草原、地中海、中東、ヨーロッパまで
人口の3分の1から4分の1、場所によっては半数以上が、死に絶えたという。騎馬民族がいなくなり、だいぶ時間がたって進出すると、大海原のような草原が広がっていたという。
ペストは、交易ネットーワークでクマネズミが媒介して広げた。

大西洋にこぎだしたヨーロッパ人。彼らが出て行ける先は大西洋しかなかったから。

新大陸の膨大な銀がパワーとなった。


<第2部 近代>

二十世紀 革命と戦争 そして幸せな家族の日々(エピソードとして)


<第3章 「国民」は幻想からやってきた>

《中世まで永く続いた帝国を終わらせ、新たな世界システムを確立したヨーロッパ。なぜヨーロッパは、中世の帝国を蹂躙し、世界のすべてを支配するような強い軍隊も持っていたのでしょうか? それは、国民が団結できたからです》

中世には、聖と俗の2つの世界(権威)があった

俗の世界:封建制度、国王と領主、領主と騎士のあいだの関係

《いまの国家とは、ふたつの点で決定的に違います。ひとつは、この国王と領主、領主と騎士の関係があくまでも個人と個人の関係だったということ。法律とか制度とか組織とか、そういう枠組みのようなものは全然なかったのです。
 もうひとつは、この関係はあくまでも領地についての話だったということ。つまり領地を耕している農民とか商売している商人などは、単なる「領地のおまけ」にすぎなかったのです。

*これは非常に重要な違いだ。人権どころか存在自体が可視化されていなかったといえるだろう。

聖の世界:キリスト教会 俗の世界ではおまけでしかない人々の心を支配していた(*なるほど)

中世ヨーロッパでは、聖のよりどころと、俗のよりどころが、一度も合体しなかった。神聖ローマ帝国はそれを目指すものともいえた(*しかし、神聖ローマ帝国は、神聖でも、ローマでも、帝国でもなかったという)

16世紀から、ハプスブルク家のスペインの強大化をおそれ、フランス、イギリス、ドイツの諸侯は強く反発し、各国をまきこんだ戦争が始まった。《そしてこの結果、帝国がもう不要であることをヨーロッパの王族たちは実感したのです。強大な帝国が出てくるよりは、小国が乱立したままの状態にして、バランスを保ったほうがいい》

《そして十七世紀にまたも起きた戦乱「三十年戦争」が終結すると、この枠組みは完全に固定されました》

中世の帝国とは違うシステムの成立へ。それがいまの「国際社会」の原型に。(*それがウェストファリア条約

もうひとつ、中世から近代への変化として、聖のキリスト教会の権威の失墜。

これに絡むのが、印刷術、ルターの宗教改革

絶対王政が一時期盛り上がるが長くは続かなかった。資本家階級が育ってくると、封建領主と農民といった関係に基づくシステムでは、時代に合わない。そして王政廃止、フランス革命

挙句の果てにナポレオン。フランス全土を統一し、「フランス人の全体が王の財産の相続者だ」ということで決着がついた。

つまるところ国民国家とは《帝国の権威が消え、キリスト教会の権威も衰え、王の権威も革命で消え、権威が何もなくなってしまった後に、無理やり「国民という権利」をこしらえたということだったのです》

国民国家は戦争に強かった。《国が総動員され、国民すべてが兵士になり、敵を殲滅するという近代の戦争は、ここから始まったのです》

ソトに敵をつくることで団結する。

文学も国民国家から生まれた。

権威は神様や王様のなかにではなく自分たちのなかにあるのだ、という考え。そうなると、立派な自分を想像し律していかなくてはならなくなる。

《その「立派な自分」こそが、近代ヨーロッパの哲学で考えられた人々の「理性」でした。
《そしてそのような理念は、神様に頼るのではなく合理的に自分たちで真理を発見していこう、という気運につながっていきます》 それが近代科学のスタート。

さらにここから民主主義が生まれる。


<第4章 民主主義という栄光>

巨大企業のウチとソト。その外側に国民国家のウチとソト。さらにその外側にヨーロッパのウチとソト。

しかしいま、この地球上においてはソトは消滅しようとしている。グローバリゼーションが地球を覆い、すべての国と国民すべてを、ウチへと招き入れようとしているから。この先にはどのような事態が待ち受けているのか。


<第5章 崩壊していく民主主義と国民国家

なぜヨーロッパ近代は終わろうとしているのか。

(1)国民国家から始まった民主主義、というヨーロッパの世界システムは永遠に正しい摂理であるとは言えない。単なる幻想のもとに成り立っているのかもしれない。

(2)産業革命による経済成長は未来永劫に続くものではない。すでに失効し、経済成長を後押しするエンジンはもはや存在しない。

第三の産業革命。「ウチとソトを分けることによってウチが繁栄する」という原理を破壊しようとしている。

なお、配分する富のなくなった社会民主主義。国には富をもたらさない新自由主義。どちらも、先進国の苦悩には答えてくれない。


<第3部 〈場〉の上でレイヤー化していく世界>

最初の音楽が場にのみこまれた(*これは誰もが実感できるケース)

大量生産から「家内制工業」の時代に。これは中世への回帰でもある。


<第7章 レイヤー化する世界>

ウチとソトの縦の境界から、「レイヤー」という横の境界へ。

上から命令するのでなく下から支配する〈場〉。

権力はレイヤー化する。

場の権力とは、レイヤー構造を支えている土台。音楽や映画なら、楽曲、番組、本などが販売されるストアのレイヤー。

私という人間も多数のレイヤーをもっている(*こちらが同書の本筋なのかも)


<第8章 「超国籍企業」が国民国家を終わらせる>

*本筋はこの章だろう

《権力は、国民国家から奪い取られるのです。国家の権威は消滅し、最終的には国という形そのものさえもなくなっていくかもしれません。すべては〈場〉に吸収され、〈場〉こそが国家に代わる権力になっていくと私は考えています。
 つまり、〈場〉を運営している新しい企業体こそが、権力の源泉になるという世界がやってこようとしているのです》(*ここは明快)

〈場〉は、国家のもつ3つの力「経済力」「軍事力」「国民力」の3つを、殺いでいく。

バクスター社、単純作業のロボット、価格は200万円。人件費より安い。

《現代の超国籍国家がつくる〈場〉は、情報が非常に流通しやすい交易システムのようなものです。中世の交易を進化させたものと言ってもいいでしょう。

このシステムは、政治とは無縁。しかも、目にみえる帝国ではない。

インドでは、国というもののイメージが変わってきている。

場は共通だが、そのうえのレイヤーは、まるでパイ生地のように、重層的、複合的につみなさなり、世界は逆に細分化されていく。

民族のレイヤー、国境のレイヤー、言語のレイヤー、政治のレイヤー、金融のレイヤー、産業のレイヤー、雇用のレイヤー、文化のレイヤー。

《…さまざまなインドのレイヤーの重なりにある、それぞれのレイヤーを貫いて光が通っている。そういう光のプリズムの光が、インド人だということなのです》

《レイヤーが幾重にも重なり、その重なったところに私たちはプリズムの光として立っている。そういう私たちの集合体で、世界はできているのです》

国民国家というシステムも、そういう積み重なったレイヤーのひとつだったにすぎません》(*ズバリこう実感できるかどうか)

フェイスブックツイッターのようなソーシャルメディアが普及てきて、《これまで隠れていたさまざまなレイヤーを浮上させ、人びとに自覚させることになりました》