数学は人の脳を補うためにつくられた、古代ギリシアの数学、ノイズをとりこむ人工知能などなど、ゼミ(http://noth.jp)で聞いた話がどんどん出てくるので、嬉しくなってしまった。おまけに天命反転が語られ、なんと「たくらみ」という語すら出てくる。そして、この論考の最重要キーワードの1つは、たぶん間違いなく「風景」だ。
《"数学"という建築は、そこに住まう者の中に、風景を立ち上げる》
この数学が建築だという見方は、私には最も興味深いものだった。数学という建物の中で数学者が行為することによって、数学という建物は絶えずつくりかえられ、しかも建築物はたえずそこに住まうものに変容を迫る――といった筆者の実感が述べられている。
これは、音楽や美術を為しながら音楽や美術という世界全体の有り様や自分の有り様がどんどん刷新されていくことにも似ていると思う。それどころか、日々のつまらない仕事にも当てはまるかもしれない。
個人的には、昔リチャード・パワーズの小説を読んでいて考えたことが、ふと思い起こされた。
「このガラスケースに入った展示物が小説なのではなくて、その展示物が置いてあって私がその中を歩いて回っている博物館全体こそが小説なのではないか」
どうだろう、ちょっとシンクロしていないか?
数学が建物であるという見方は、さらに広く、人間の体や脳は自然という一種の複雑な計算機を使いながら知能や技術を備えてきた、という極めて面白い視点に基いているようだ。これは『なめらかな社会とその敵』(鈴木健)ともぴったり共通していると思う。
さてしかし、問題は、ゼミの課題「感覚や思想を調整する風景」というのが、いまだにピンとこないことだ。
むしろ新潮の論考では「風景」の位置づけはわりとはっきりしている。
《ここが最も肝心なところなのだが、数学的概念の「了解」はしばしば何らかの心的な「イメージ」を伴うものである》
数学者が数学の問題を見つめそして数学の問題に見つめられるなかで、独創的な何かを初めてつかむとき、そこには抽象的記号を超えた風景が眺められる、といったことなのだろう。
そして、そうした数学が与えてくれる独創的な風景は、反対に、数学者の感覚や思考自体を新たにチューニングしてくれる、ということかもしれない。
私の場合、数学はよくわからない。音楽や美術ならわかるというわけではないが、まだしも馴染んではいる。そして、キテレツな現代音楽や現代美術に触れて勝手にひらめく何かは、とても新鮮だ。だから、今回の課題の風景もそうした音楽や美術が見せてくれるもののなかに探すのもいいかもしれない。
しかしこの際私は、荒川修作の存在に匹敵するくらいキテレツだという現代数学が見せてくれる風景自体が知りたい。その風景によって自分の感覚や思想がいかに空前のチューニングをされるのか、体験したい。
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