「風呂敷包」というエッセーにそれが垣間見える。風呂敷包はつまり「クラウド」か。
「スンダ事に用ハナシ。モウ今日限リ止メル也」と書いて、日記をやめた百間先生。その後、用事は紙片(かみきれ)に書き留めるようになる。それでどうなったか。あまりに面白く、あまりに示唆に富んでいるので、以後を全文引用したい。
《その癖、用事は紙片にかく。特に、何か知ら不安な、気がかりな、先ずその時までは思い出さずにいたい、しかし忘れてしまっても困ると云う様な用事は、手帖に書き入れるよりは、ばらばらの紙片に書き留めておく方が気持ちがいい。それを鞄の中に入れて、持って歩く。段々そんな書附がたまって、それに、また後で読めばいいと思って、封を切らない手紙や、払うあてのない請求書などが一緒になって、赤皮の大きな手携鞄が一ぱいになってしまったのは、去年の春頃である。その鞄は、長い間質に入っていたのを、何かを出す序に一緒に受戻したのだけれど、暫らく振りに、物珍しさで携げて歩いている内に、忽ち一ぱいになってしまって、今でもおなかを膨らました儘、部屋の隅で埃をかぶっている。中に何が入っているか私はもう殆ど記憶がない。
全体、持ち歩くのに鞄は邪魔になる。袱紗包の方が手軽であると思いついて、私はいろんな書附を袱紗に包み始めた。そうして鞄の後にもう、漱石先生、芥川君、田山花袋先生のなくなられた時に貰った袱紗を三枚とも一ぱいにしてしまった。その外にまだ、学校の教員室の戸棚の奥には、その以前の書附の束を、無茶苦茶に包んだ風呂敷包が二つある。無闇に包むばかりで、なんにも整理していないのだから、その儘すてるわけにも行かず、と云って、取って置いても、開けて調べる気にもなれず、第一、古い書附というものは、汚くていけない。私が悪い事をして、検事が家宅捜索をする様になると、嘸かし手数を煩わす事だろうと、あらかじめ恐縮に堪えない。五六年前に、一度どうかした機みにその当時の風呂敷包が崩れて、中から見たくない様な書類が一ぱい出て来た時、何だか、かちっと云う音がする状袋があったから、開けて見たら、五十銭銀貨で二円五十銭出て来た事がある。多分、袋の中から、いい加減にお金を出してつかって、計算は後でするつもりで、その時のおつりを中に残した儘、風呂敷に包んで忘れたものらしい。今ではもう、どの包みを開けて見ても、そんな袋はなさそうだから、開けて見る気もしない。否、借りにそう云う袋があるとしても、三円や五円では、包みは開けられないのである。先ずそっとして置いて、天変地妖で消え失せるのを待つか、若し包みの方で頑張るなら、私の方で、もろもろの包みを残して昇天するばかりである》
結論:クラウドは二円五十銭の得
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この流れで「ライフログをクラウドに任せる」と打ち込んで検索したら、あるブログに行き着いた。これがまた百間エッセー並みに刮目すべき文章だった。タイトルがそもそもナイス。「クラウドに着ていく服がない」 クラウドについて書く人は山のようにいるが、こんなタイトルはめったにない。
というわけで、こちらも全文引用…しなくてもリンクすればいいので、リンクする。
http://otsun.blog46.fc2.com/blog-entry-857.html
結論(ではないのだが)《なんという安心感。なんというコントロール感。わたしは人生を支配しているし、日々溜まっていくわたしの情報が、わたしの人生を形作っていく》
この人はツイッターについても、《諦めのアーキテクチャ》という核心的と思われるキイワードを示す。つまり《コミュニケーションをゆるめている》、携帯メールと違って《無応答の意味が生まれにくい》というのだ。
http://otsun.blog46.fc2.com/blog-entry-651.html
結論としては《twitterはコミュニケーションを、本来の、ゆるくて、限界があって、ぐだぐだのものに戻したのです》
さらに、《twitterのストックの断念によって、外部サービスへの接続欲求が生まれる》とも述べている。これははてな 近藤氏の最近のエントリーを思い起こす。
http://jkondo.hatenablog.com/entry/2011/11/19/114109
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なお、きょうクラウドのことを考えたのは、ツイッターのアクティビティ機能が気になったことから始まっている。以下のログ参照。