https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2025/08/28/000000
↓(続き)
私は何ごとにせよ原理はどうなのかが気になるたちだ。進化論がまさにそうで、「変異と淘汰」この2つの仕組みが把握できたんだから、あとはもう考える必要がないと思っている。去年苦労して読んだデネットの『ダーウィンの危険な思想』は、その確信にいっそう強力な筋金を入れてくれた。
だったら、この本(進化という迷宮/千葉聡)は今さら何のために読むのか。小笠原に生息するカタツムリという特定の場所の特定の生き物を長年にわたって研究したとして、それ以上何がわかると言うのか?
それはともかく、同書は<生物の歴史を巻き戻して再生したら、同じような進化は二度と現われないのか>という、おなじみの悩ましい問いをまず掲げる。進化論をまじめに勉強する者たちをふと迷い道に引き込むこの問いは、スティーブン・ジェイ・グールドという曲者の人気学者が発したものだった。
この問いの脇には、<進化の道筋は「適応=生存・繁殖に有利」が決定づけたのか、それとももっと「偶然」が大きく左右したのか>という、もう一つの重要な問いがある。グールドは、なんでもかんでも適応で片付けるな、偶然の関与はものすごく大きいぞと主張した。だからヒトも二度は現われないと。
この問いに、同書は<進化は適応と偶然のミックスです>という主旨の回答を最後に示す。「そりゃそうだろう」「だったらあらゆる進化は適応と偶然のミックスということで!(終了)」と原理主義者の私は思ったかというと、そうではない。
ここで重要なのは……
小笠原のカタツムリというただ1つの例をめぐって、ではどれが適応でどれが偶然か、そして、それぞれいかに適応したのか、いかに偶然だったのかを、長年の観察と考察と数理なども絡めて割り出し、蓋然的な進化の道筋を、根拠や理論とともに、きっちりと描き出していることが、重要なのだ。
おそらく私などは、どんな生き物のどんな特徴を眺めても、それってすべて進化に決まってるのだから、すべて適応か偶然のミックスということで、それ以上悩まなくていいし、どっちのせいかなんてどうせわからないに決まってる、とそんなふうにすべてを片付けていたのだと、思われる。
ところが本当は、みんなで頑張って理論を磨き上げ、みんなで頑張ってあれやこれやを観察し考察し議論するなかで、それがいかなる適応だったのか、いかなる偶然だったのか、ほんの少しの部分であっても、かなり妥当な歴史を立証できるのだ! すごいことだ。見てない過去が今になって見えるのだ。
千葉聡『進化という迷宮』(講談社現代新書)をめぐって、最も気になる疑問を片付けておきたい。
実はこの書には「隠れた「調律者」を追え」という悩ましい副題が付いている。──調律者? それって一体…? そもそも、君や私が<無神論者の鑑>でありたいなら、この世界に意図や目的を仮想してはならない。「隠れた調律者」など存在してはならないのだ。
これについて著者は最後に明かす。《本書で、ときに私は、自然があたかも能動的で意図をもつ存在かのように見える比喩表現をあえて許容してきた。それは便宜上、人間の思考様式が備える合目的性に合わせた説明を試みたからである。実際には、自然も進化も、一切の意図や目的をもたない》
OK、当然だが了解。ところがそのうえで、「進化の調律」をめぐって、著者は、次のようにも結論を下す。
《概して、進化の歴史は繰り返さないが、韻を踏むのである》
「韻を踏む」? また悩ましい。この本はどこまでも曲者なのである。スティーブン・ジェイ・グールドと同じように。
そのココロは次のようなことだ。
小笠原というある特定の環境にたどりついた、カタマイマイ属というある特定の生物に限っては、ある似たような進化を繰り返している(それが証明できた!) ただしこれはよくよく調べてみれば、彼らの殻がたまたま平巻きの形だったという<偶然>がもたらした。
いわば<偶然が生む必然>、いわば<必然は偶然のみがもたらす>、ということなのだろう。
進化の実態とは、詳しく記述すれば記述するほど、偶然と必然のあわいにある、ややこしく、すっきりしない、しかし得もいわれぬ、歴史を浮上させるのだ。原理主義者には面倒くさいが輝くような事実だ。
さてさて。じゃあ、小笠原群島のカタツムリではなく、地球群島の人類はどうなんだ? 繰り返すのか、繰り返さないのか? 進化の歴史を巻き戻したら、やっぱりヒトがまた出てくるのか? この最大の気がかりが残っている。
これについて、著者は、さらりと書いている。
《…小さな群島で何度も同じ進化が繰り返されたことは、知性の普遍性にもかかわらず、人類の進化は広大な宇宙で恐らく唯一無二の進化であろうという考えと矛盾しない》と。ヒトは二度は出てきません、ということになる。
まあ、この結論に至ることは予測できた。そもそも、同書は人類の進化を追う本ではない。現状を超えた主張をする狙いもないだろう。人類の進化については、これもさまざまな研究者がさまざまな方法で詳細に追っているだろうから、それをみるといいだろう。ただし、おそらく結論は同じだろう。
しかしそのうえで─
人類やヒトの進化において「進化の調律」があるとしたら…。「韻を踏む」としたらどんな韻だろう? そう問いかけたくなる。
これについて著者は何も述べていないが、やっぱり、たとえば言語だとか数学だとか、そうしたものへの収斂が、それに当たるのだろうか。