◎ https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2023/04/16/000000 から続く
ブライアン・グリーン『時間の終りまで』。読了したが、ちょうど新書化されたようだ。
https://www.amazon.co.jp/dp/4065320070
(関連情報:近所の床屋の人がブライアン・グリーンに似ている)
さて、同書の感想を続けよう。
宗教を考察する第7章。著者はセントラルパークでクリシュナ教徒になった兄を目撃したことを明かす。
《その後の数十年間、兄とはめったに会うこともなかったが、たまに話をする機会があれば、いつも話題にのぼるのはヴェーダのことだった》
《散発的な兄との対話を通してわかってきたのは、ヴェーダは、流砂のようにたえまなく移り変わる実在の基礎にある、安定して変わることのない特質を探究しているということだった》
――ここで私は連休で再会した友人・知人のことを自ずと思い出した。
そして著者は、兄と自身との共通項を見出す。
《ヴェーダと基礎物理学はともに、日常経験といううわべの向こうを見たいという強い思いに駆り立てられている》
しかし直後に著者はこう断言する。
《だがその目的のためにやることは、この両者ではまったく違う》
次も同じ趣旨だ。
《ヒンズー教と仏教は、日常の知覚が与える幻影を超える実在を探究するが、過去一〇〇年間に起こった驚異的な科学的進展の多くもまた、同じことをやろうとしてきた》しかし《私は、あいまいなメタファーとしての共鳴以上のものに出会ったことがない》
このように宗教と科学の類似点がとても豊かに記述されている。そして結論は一撃だけ――でも宗教は科学とは全然違うよね。だからこそ印象が深い。(最近ハマっている「刑事コロンボ」で、妻や夫をにこやかに静かに殺害する犯人のようだ)
とはいえこの章でブライアン・グリーンは、むしろ宗教に寄り添う。兄に寄り添う。
私たちの宗教的な信念が、これほど強靭で疑いを差し挟むのを戸惑うほどなのは、何故なのか。進化や生死を踏まえたその長い分析は、読者にも、そしておそらく著者自身にも説得力をもつ。宗教の良さがむしろ浮上する。
◎ https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2023/06/17/000000 に続く