「圏論は宗教。はまり過ぎないように。」
入信間近。
”語り得ぬものについては 信仰しなければならない” ?
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さて真面目な話、圏論は、わからない。何について何を思えばいいのか、わからない。最近はわからないことにも飽きて、このわからなさをどう例えればいいかを考えたりする。世界が球体で回転していることを、誰もまったく知らないときに、どういうものかをただ想像するようなわからなさ、とか?
たとえば、インドのどこか辺境で迷子になり、奇妙な景色や人々や食物ばかりに圧倒されても、世界の地図というのは常に把握できているので、ここがだいたいどこかは絶対にわかる。要するに、数学という世界をどのような地図で把握すればいいのかがわからないことが、けっこう大きいのだろうか。
そのとき以下の動画がモヤをひとつ晴らしてくれた。
「高校生でも雰囲気だけわかる圏論」
数学の各分野は集合という枠組みですべて置き換えられるとされるが、圏論も集合みたいな強力な枠組みなのだと言う。しかも集合と圏論の違いを、自己紹介で自分のことだけ言うか他との関係を言うかの違いに、例える!
集合というものが、数学でそれほど特別な位置づけにされていることなら、すでに知っている。これまで「ゲーデルの不完全性定理」をめぐる種々の参考本を、いやというほど読んだ――いやというほど多く読んだのではなく、常にいやという気持ちになりながら少し読んだ。そこで集合はまさに立役者だった。
しかしそもそも集合は、今から思い出えば中学生ぐらいの数学の授業でやったから、「集合? それなに?」の状態ではない。つまり圏論ほど頭の中の置所が不明ではない。そうしたなかで「不完全性定理」も、慣れた。理解したとは言わないが慣れた。(地球が回っているという理解も実はただ慣れかもしれない)
不完全性定理が語られるとき、数や証明を「集合」の枠組みで捉えていくルートを通ることになるが、このとき「集合」には慣れ親しんでいるから、心が完全には折れないということ。インドで病気になったけど和食があったから少し元気を取り戻した、みたいな。
いやここでもっと重要なのは、中学の授業で集合を習ったときだって、「集合? なにこれ?」の状態だったかも、ということだ。私たちはなかなかしぶとく、案外なかなか賢くもあるのであって、圏論もいつか慣れる日が来ることを信じよう…
※新しいカテゴリー「数学」を作った(なぜこれまでなかった?)