「新人類」世代。「ふぞろいの林檎たち」世代。
「ふぞろい」の3人でいうと、おそらく仲手川くん(中井貴一)が彼のキャラ。
君主を「さま」と呼ぶのは、なにか大きな幻想(物語)に支えられているのだろうが、「彼」と呼ぶのも、また別の大きな幻想に支えられている。
たまたま今週、「ふぞろいの林檎たち」がユーチューブにあったのが懐かしくて視聴しやめられなくなっているので、そんなことを考えた。
中井貴一と岩田(時任三郎)とみのる(柳沢慎吾)は大学4年の仲良し同級生。恋人と就職を渇望して抜き差しならない年ごろ。1983年にパート1放映。
携帯なき時代にどうやって電話連絡していたのか。店でみんなふつうにタバコを吸っている。オープニングタイトルに西新宿の高層ビル群が映るが都庁はまだない。私もまた現代史を生きてきたなと感慨深い。ソビエト社会主義共和国連邦とウクライナ・ソビエト社会主義共和国も、当然かつ永遠のごとくに存在する。
もしも日本の天皇がプーチンだったら、岩田くん(時任三郎、喧嘩っ早い)キャラになってしまうのか。ともあれ、ロシアの国体が幻想なら、日本の国体も幻想だろう。どちらの幻想が濃いか淡いか?
さて、現代史において国や国民が一体であるという意識を作り出すのに、テレビが特別大きな役割を果たしてきたことを、忘れるわけにはいかない。すなわち、「ふぞろいの林檎たち」を、日本列島の住人はことごとく知っているだろうが、日本列島の住人以外はおそらくだれも知らない。
令和の君主をまるで友達のように「彼」と呼ぶのは幻想だろう、と最初に書いた。とはいえ、その幻想はたとえば次のような事実(おそらく)に支えられている。ーー同じ時代に彼もまた家のテレビで「ふぞろいの林檎たち」を視聴し、自らの友達や恋人の幻想を重ね合わせて共感したに決まっている!
ただ、1983年と今を比較すると、TVドラマのドメスティックからグローバルへの変化は著しい。83年の私には海外といったらハリウッドとドルと英語の世界でしかなかった。たとえば韓国なんて外国ですらなかった(存在をほぼ意識していない)。ソウル五輪も国連加盟も冬ソナもまだまだ遠い先。