先日 視聴した。「意識の考え方」を考える(北大CHAIN/シンギュラリティサロン)
以下の図がじつにエレガント! 言い得て妙! いつまでも眺めていたくなる。
https://pic.twitter.com/uxEjazqBPh
(動画からキャプチャー)
図は田口茂さんによる。今の私に最重要書の1つ『〈現実〉とは何か』著者の一人。同書は理論的にシャープだったが、同サロンの田口さんは語り口的にとてもマイルドでそれもよかった。
「身体的に行為することで世界は作られる」という捉え方をエナクティズムというそうで、これが図の<世界が身体に含まれる>ほうのカギになる。
意識を「空間的に場所を占める(たとえば頭の内部にある)事物であるかのように」捉えると、意識の解明を難しくする、という指摘も印象的だった。たとえば人の「性格」も人の内部にある実体ではないと思えるのと同じことだろう。意識は関係性であり「圏論でいう矢印=射みたいなもの」とも言う!
ただし私が圏論を理解するには300年ぐらいかかりそうで、絶望しているわけだが、意識も実はそれぐらい見通しが立たないらしいので、同程度には希望を捨てなくてよい。
さて、ものごとの真相はたいてい入れ子なのかもしれない。だから「意識の考え方」を考えるとか、〈現実〉とは何かとか、カッコを多用せざるをえない。しかしそれは便宜上であり実はそれ自体「悪手」かもしれない。「「意識の考え方」とは何か」「〈現実〉とは何か」とは何か」とどんどん後退…
その解消のために田口さんは、たとえば意識も「どのような(観察可能な)具体的現象がどのように組み合わさったとき」に浮上するんだろう、というふうに見ていく。それを「媒介論的アプローチ」と名付けている。
吉田正俊さんの話は、まるで意識を手術台に乗せ血を飛び散らせながら解剖している最中のような趣で、エキサイティングだった。「自由エネルギー原理」という意識の独創的な捉え方については、300万分の1ぐらいは理解した。
もう1つ、質疑応答で「人工知能は知能さえあれば身体なしでも意識が出現しないとは言い切れないのでは?」という趣旨の問いかけがあった。それに対し「(意識の人工的創造では身体なしもありかもしれないが)意識の起源を考えるときは身体が不可欠」という趣旨の回答。なるほど! 面白かった。