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【2019 輪廻転生】

★赤と黒 ★家族ゲーム

スタンダール赤と黒』(野崎歓訳)

上巻しか読んでいなかったので再読することにした。先日『フランス史10講』を読んだこともある。ナポレオンにあこがれるジュリアン、田舎の貴族のレナール氏、社会的・政治的位置づけがそれなりにわかる。

それはともかく、レナール夫人のジュリアンへの「よろめき」がこれほど話の主軸になっていたことを忘れていた。レナール夫人は子供たちの家庭教師としてジュリアンを家に迎える。どんな先生がやってくるのかと気持ちがそぞろになる。ふと、先日アマゾンで視聴した『家族ゲーム』を思い出した!

家族ゲーム』のお母さん役は由紀さおり。家庭教師を迎える母親の気持ちをまじめに想像してみるなどという体験は、私には人生でこの2回くらいだろうか、などと考える。そういえば昔私も家庭教師をしたなんてことも、今じつに久しぶりに思い出した。

さて『家族ゲーム』では、やってくる家庭教師がごぞんじ松田優作で、この映画はその先生の異形さが最大の見どころ。とはいえ、ジュリアンのように時代精神を一身に担うような設定ではない。もはや経済成長も政治闘争もすんだ1983年、喪失されてもなお過剰な野望の象徴が松田優作だったのか?

訪れる家庭も、もちろんレナールのような貴族の屋敷ではなく、当時開発が進んでいた晴海の湾岸マンションであり、家の中が狭いの特徴。サラリーマンの夫は狭い浴槽につかり、夫婦が子供に内緒で話をするには、下の駐車場まで降りて車に閉じこもらる。20世紀日本総中流の一例か。

といっても、今となっては、一人が会社で一人が家事で夫婦をなし、子供ももうけ、車を所有し家庭教師まで雇える中流家庭が、どれほど減ってしまったか、考えこなまいといけないのだろう。

さてさて、松田優作が超絶面白い映画ではあるが、生徒としてコンビを組むことになる宮川一朗太が、これまた無闇に面白い。彼らのこうした不思議な面白さは、先ほど言った、時代精神と称されるような正当な野望といったものがどうも喪失せざるをえなかったゆえの、無闇さだろうか…。

さて、松田優作宮川一朗太に負けず、父親役の伊丹十三も奇矯な役柄で面白いし、由紀さおりも個性的で面白い。歌手デビューのころから10年余りを経て当時すでに微妙なキャラクターだったはずで、公開のときもちょっと意外な配役だと思った覚えがある。

そして『家族ゲーム』では、良妻賢母を演じなくてはならない夫人が、自宅にいわば暴力的に入り込んでくる家庭教師に、よろめくという展開には、まったくならない。のだが、『赤と黒』を読んでいると、そうしたものがどこかに隠れていたらいっそう面白かったのに、などと思う。

とはいえ、もし『家族ゲーム』がよろめきドラマになってしまったら、『家族ゲーム』の何の話かわからない浮遊感は消えてしまうだろう。1980年代の初めというのは、今の日本にあるような「現実の身も蓋もない苦しみや傷」といったものが前景化せず、それがあってもなんとなく離れていられる気分だった。

 

 *

 

私的に音楽は結局1973年に戻っていくが、映画は結局70年代終盤あたりに戻っていく。アマゾンプライムで(次から次へとことごとくなぜ見たくならないのか困り果てつつ)つい『サード』(1978)『もう頬づえはつかない』(1979)と見て『家族ゲーム』に到った。次はどうしたって『青春の殺人者』。

ところで、『家族ゲーム』は80年代初めのマンション、一方『もう頬づえはつかない』は70年代後半の学生アパート。よくあんな狭くて風呂もない部屋に、と思うのだが、しかし2000年をすぎてからの首都圏の単身者のすまいも、なかなかどうしてだ。

 

ちなみに、アマゾンで直近にみた映画は『田園に死す』(1974年)で

――ネタバレを言うけれども――

ラストシーンに当時の東京が映る。新宿東口アルタあたりが見えているのだと思う。マクドナルドがもうある! https://pic.twitter.com/l8E94LNLB9

田園に死す』は私は1982年ごろに初めてみて強烈な衝撃を受けた。しかし今となってはシンボル、寓意といったものが直接的すぎると感じられる。このあいだホドロフスキー『リアリティのダンス』を視聴したが、その趣向は『田園に死す』とまったく同種だと思った。