「アメリカとはいかなる国なのか」――これは問いというより、むしろ驚き、あるいは、もはや嘆きの文言だ。
「俺は何のために生きているんだ」とか「そもそも宇宙はなぜ在るのだろう」とかいうのも、問いというより、嘆きや、問うことを諦めたときの文言なのかもしれない。
ただし、カント先生は、嘆きや諦めではなく、大マジの問いとして「人は何のために生きるのか」を問うたと思われる。
https://www.amazon.co.jp/dp/4142231146(NHK 100分de名著 カント『純粋理性批判』)読んだ。
なお「何のために生きるのか」(私はどう生きるべきか)の問いは、『実践理性批判』に詳しいはずだが、『純粋理性批判』の終盤にも出てくることを今回はっきり知った。解説の西研さんは、この終盤の問いをかなり重視している。
ただ、『純粋理性批判』の主テーマはそうではなく、一言でいえば「私たちはこの世界をそれぞれに捉えているのだとしたら、それは一致できないのか」「一致できるとしたら、それはなぜなのか」というものだろう。
その主テーマについても、このテキストはとても易しく明らかにまとめていると感じた。『純粋理性批判』を読んだことはなく(開いたことはあるが)、その解説本も3〜4回読んだ程度だが、今回は全体像および骨格が初めてくっきり見えたと思う。ありがたいテキストだ。
それから、もう1つ内心で改めて思ったこと。「カント先生、私がずっと考えていることは、カント先生が18世紀に考えたことと、わりと同じですね」ということ。
それは、西洋哲学そしてカント哲学がさまざまな形で私にも伝わってきているという事実の確認であり、あるいは、21世紀にもなって私はまだ18世紀と同じところにいるのかという反省でもあるが、それ以上にカント先生への単純な強い共感と親近感を覚えずにはいられないという実感。
『純粋理性批判』の主テーマ。言わずもがなだが、一応記しておく(同テキストからの引用で)
《ふつう私たちは、客観がまずあってそれを主観が写し取る(客観→主観)と考えます。しかしカントは逆に、主観のア・プリオリな枠組みが現象としての客観をつくり出す(主観→客観)と考えるのです》
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少し後に次を読んで『純粋理性批判』が思い出された。
https://www.youtube.com/watch?v=7Y-VCNAE2Ec
《現実に応用可能な数学は限られている》そしてまた《数学による表現がなじむ現実もまた限られている》
だから《べつに不合理ではない》
あるいは《人間の科学的認識(メガネ)が数学的だとしたら》