あいちトリエンナーレ2019で「表現の不自由展」が中止になるという出来事が起こった。
それに関するツイート、時系列で。
<8月2日>
芸術と政治の素晴らしい演習問題。正解が知りたい。
<8月3日>
「どう考えても日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない」
私がこう言うのは自由だとしても「芸術祭の実行委員会の会長代行を務める名古屋市の河村市長」がこう言うのは自由かというと、いやまあ、それもまったく自由だろう。
ただし。
その河村市長の発言に対し、私や君がどう反応するかというと、それもまったく自由なのに、実際の私や君の反応は、あまりにも不自由ではないか?
人の言動はけっこう自由なのに、人の思考がなかなか不自由なのを、思い知る感じ? ゆえにこの演習は良問だろう。
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津田さんの声明はうなずける。
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何を言うのも自由です。 https://twitter.com/otokita/status/115746093150223155
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何を言っても自由です。
https://twitter.com/yamadataro43/status/1157533403484266498
というか、何も言わないのも自由です。
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「愛知県が韓国政府の主張を正当化する展示を中止するのは当然である」と思うのは自由だ。だが「当然ではない」と思うのも自由だ。
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中止になってしまった。
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問題の焦点はこんなところにも?https://htn.to/2Z5FqyHfTs
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展示されない作品だけが展示される美術展では作品が展示されても展示されなくても虚偽になるというパラドクス!
https://twitter.com/arai_hiroyuki/status/1157645351941070850
<8月4日>
傷が深い。
https://htn.to/4tRiKHRJWe
https://htn.to/3TQ8iPMqvg
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https://twitter.com/fromdawn/status/1157429290868207617
多くの日本人にとって、コーランや聖書が焼かれても痛くも痒くもない。あの少女像や天皇ほど強烈に困惑させられるアイコンはない。リスクも小さいわけがない。それと、あの実行委員会のウケや思想が偏っているとしても、たいていの人のウケや思想は偏っているのだし、遠慮する必要もゼロだ。
歴史も国家もロンダリングしてリバタリアンになりたい。しかしそれは21世紀の今の時点で私には無理だ。
<8月5日>
大村知事、いいね!
“税金でやるならこういうことをやっちゃいけないんだ、自ずと範囲が限られるんだと、報道等でもそうことを言っておられるコメンテーターの方がいるが、ちょっと待てよと、違和感を覚える。全く真逆ではないか”
<8月8日>
左側にも右側にも気をつけろ
<8月9日>
「表現の不自由展・その後」中止事件と「天皇の写真を燃やした」という誤解(篠田博之)
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20190808-00137629/
《「自分の中に無意識に抱え込んでいた“内なる天皇”を自画像を描くなかで描いてみたいと思った」》
この作品には昔から興味があった。
ついでにこんなのも。
→http://www.mayq.net/merry.html
<8月10日>
凡庸自由発言 https://twitter.com/okada_tarumi/status/1159975469669703680
<8月18日>
同じ1つのものに教養と娯楽が分かちがたく結びついていることがあるように、同じ1つのものに芸術と政治が分かちがたく結びついていることがある。
(分かちやすく結びついていることもあるが、そっちが偉いとはかぎらない)
<8月20日>
聴こえない旋律を聴く/岡﨑 乾二郎
http://www.webchikuma.jp/articles/-/1808