https://ironna.jp/article/12479
「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか(倉山満)
面白く読んだ。
「天皇は男系にかぎる」はゲームの規則ということか。いや、私たちの尊き皇室信仰のすべてをゲームと呼んでもいい。7世紀から一度もリセットされず国民観念のオンラインで継続されてきたゲーム。
そうすると、同じく、こうも考えたくなる。親と子を「血の繋がり」としてみることも、日本国籍の血統主義も、ある強力な世界観や物語を前提にしたゲームにすぎないのだ、と。
大化の改新も壬申の乱もそうしたゲームの観点を交えてこそ面白く学べるのだろう。はたまた現代に至っては、「フリーター」というジョーカーのごときキャラクター(小室さん)が突如として現れ、波乱の展開。
しかしながら。たとえば、私たちのポケモンハンターもイングレスもさまざまなオンラインゲームも、ゲームだからといって、実在しない何かであるとは、私にはもはや感じられない。同じく、私たちの皇室信仰も、仮にゲームであるとしても、実在しない何かであるとは、私にはもはや感じられない。
さらにそれは、家族や国家が、ゲームにすぎないとしても、実在しないなどとは、どうしても考えにくいのと、同じ。
しかし、さらに考えを進めるなら。たとえば、日本の家族は中国などの家族に比べ血縁をことさら重視しないと言える。あるいは、日本国民というコンセプトに、少なくとも私にとっては、いわゆる日本人もいわゆる在日も含まれる。コンビニの外国人店員も含まれる。それをゲームの規則にしてもよい。
ところで、「貴種流離譚」という物語の典型も、先ほどの記事は思い出させた。
いや違うか。この場合の「貴種」は一人の人間を指し、一つの遺伝子を指すのではない。
それどころか、先の記事によれば、特定の遺伝子が天皇の要件ではない。単に天皇の父の系譜に天皇がいなければならないルール。たとえばお父さんのお父さんのお父さんのお父さんが天皇だったらそれでいいですというルール。ゲノムの共通性すら乏しい。もはや他人でもいい。血統幻想ゲーム。
確認するが、記事は《「Y染色体遺伝子」などで皇室を語るなど、児戯(じぎ)に等しい》と断じている。《継体天皇と武烈天皇は十親等離れている。それこそ血の濃さを持ち出すなら、「ほぼ他人」である》とも。男系にかぎる物質的根拠は薄い。ならば血統とは? 幻想ともいうべきゲームの規則。
ところで、Y染色体というと、チンギスハンのY染色体をもつ人がアジアには非常に多いという話がある。代々の天皇のだれかのY染色体をもつ日本人となれば、これも予想外に多いのではないか。
だから、仮に「Y染色体の系譜を血族と呼びます」というルールにしたら、そうとう大勢がチンギスハンの血族、または天皇の血族になりそうだ。
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ここからまた話が飛ぶ。言い換えれば、チンギスハンという男は進化的に大勝利をおさめた。それ以外の男はそうではなかった。人間は進化の観点ではまったく平等ではないのだ。
そもそも子孫を残してこそ勝者(適者)だというのが進化論。そうすると、いつの時代でも子をもうけた親は全員が勝者。しかし子は全員が勝者ではない(全員が子をもうけるとはかぎらない)。生んだことは地球の適者であることを意味するが、生まれたことは地球の適者であることを意味しないのだ。
子をもうけるかどうかにとどまらず、はたして自分は、地球という自然的過酷環境における適者なんだろうか、日本という社会的過酷環境における適者なんだろうか、そのように顧みれば、どうみても不適な形質がいくつも思い浮かぶ。私にも君にもこの世界は進化的・形質的にアウェイかもしれないのだ。